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日本辺境論

先週買って読んだ。

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

「辺境」をキーワードとして日本人のユニークさを説いていく内容です。古代から中世にかけての中国、近代における欧米列強、そして現代ではアメリカと、日本はそういう「中心」となる国からずれた「辺境」に位置しているがゆえに・・・という視点で日本人の思考や言動を見ていくところがなかなか面白かったです。ポイント部分を引用すると

何かの理由で挙国一致的な努力が要されるときは「世間の常識を知らない田舎者のままでいいのか」「世界標準からこんなに遅れているぞ」という言い方が採用される。必ず採用される。その恫喝が有効なのは、自分たちが世界標準からずれているということについては日本国民全員にその認識があるからです。(p.70)

自分の存在の起源について人間は語ることができません。(中略)私たちはすでにルールが決められ、すでにゲームの始まっている競技場に、後から、プレイヤーとして加わっています。私たちはそのゲームのルールを、ゲームをすることを通じて学ぶしかない。ゲームのルールがわかるまで忍耐づよく待つしかない。そういう仕方で人間はこの世界にかかわっている。それは人間が本態的にその世界に対して遅れているということです。それが「ヨブ記」の、広くはユダヤ教の教えです。ふつうの欧米の人はこういう考え方をしません。
(中略)
日本人はこういう考え方にあまり抵抗がない。現実にそうだから。それが私たちの実感だから。ゲームに遅れて参加してきたので、どうしてこんなゲームをしなくちゃいけないのか、何のための、何を選別し、何をするゲームなのか、どうもいまひとつ意味がわからないのだけれど、とにかくやるしかない。
これが近代化以降の日本人の基本的なマインドです。そして、このマインドは、ある部分までは近代史の状況的与件に強いられたものですけれど、日本列島住民が古代からゆっくりと形成してきた心性・霊性にも根の先端が届いている。私はそうではないかと思います。
辺境人にとって「起源からの遅れ」はその本態です。日本人の国民性格には深々と「遅れ」の刻印が捺されています。それが悪い出方をすれば「虎の威を借る狐」になる。でも、よい出方をすることもある。(p.124-6)

引用した後半部分の、ゲーム云々の箇所を読んでいると、ウィトゲンシュタイン「哲学的探求」の第219章「私が規則に従うとき、私は選択しない。私は規則に盲目的に従う。」を思い出したりするのですが、それはそうとして、著者の指摘はいいとこ突いてるなと思いました。
ただ、日本が「辺境」だから、起源(中央)に遅れをとっているから、という理由だけで全てを説いていくのはちょっと無理があるんじゃないかという気もします。というのは、世界を見渡せば、アメリカや西欧諸国、あるいは中国を除けば、たいていの国や地域は「辺境」に位置するわけで、日本以外の国・地域においても同じことが言えてしまうのではないか(現代社会では、たいていの国が世界標準に遅れまいと必死なはずですし)。
それ以外の点で、日本人の(他国にはない)独自性をアピールするならば「民族的な均質性」でしょうか。ほぼ同じ民族の人間どうしだから思考回路も同じ、本書の表現を借りれば「論よりは義理と人情の話し合い」でカタが付く。ただ、日本と同じく(日本以上に?)民族的均質性の高い韓国を引き合いに出せばどうなるか、という問題もありますが。
それ以外に日本のユニークさを挙げるとすれば「そこそこの人口を持っている」ことかと思います。うろ覚えで失礼、確か『Jポップとは何か』(烏賀陽弘道著・岩波新書)だったと思うけど「日本の音楽産業は、そこそこ大きい国内市場だけをターゲットにしていても食っていけるが、香港やシンガポールのような小国ではそれができないからアーティストは国外に出て行かざるを得ない」という内容のことが書いてあったのを覚えています。ここ最近では音楽産業よりガラパゴス・ケータイとかIT関係の話で日本の特殊性を論じられることが多いようですが、今のぼくにとってはそっちのほうが本書の「辺境論」よりも説得力のある日本論・日本人論かな、とも思います。
あと、師弟関係や水戸黄門に見る「学びへの過剰適応」の話も面白かったのですが、それについては後日また。