山田尚子さんの発言から

長らく開店休業でしたが、あまり長い話を書く力もないのでちょろっと。
11月30日に催された「京都アニメーションアニメーションDoファン感謝イベント」の監督対談(with 石原立也さん、武本康弘さん)の最後のほうで聞けた発言(手元のメモ帳に急いで書き取ったものなので、多少聞き違いがあるかもしれません)。

(仕事について)自分は話すことが苦手だが、アニメ制作をしながら「作品を通してお話ができる」ようになった。自分がそういう媒体にいられることはありがたい。人の心を動かすようなことができたら嬉しいし、いろんな形の表現方法を勉強していきたい。

そういえば、似たような話をどこかで聞いたなあと、Evernoteの記録を探してみると『たまこまーけっとBlu-Ray1巻のスタッフコメンタリー(2話、みどりの祖父のセリフが終わったあたりから)であった模様。以下書き起こし。

(みどりの揺れる気持ちについて他スタッフからコメントを求められて)言葉にできない気持ちを・・・言葉にできないから表現してみました。なんかね、映像を作れて嬉しいなと思うところは、そういうとこかも知れません。言葉で言うのは苦手なんで、絵で見せていける、動きで見せていけるというのは、かなり自分としてはすごく良い、ありがたい。

ところで、この2話では「星とピエロ」マスターの「誰にも名前の付けられない気持ちがある」という名言もありました。名前が付けられないというのは、言葉に置き換えられないことでもあり、劇中ではみどりちゃんの表情の移ろいがまさにそういうものであったなと再確認。
この『たまこまーけっと』では「母の死」を言葉で明確に語ることを最初から最後まで禁じ手にしていましたし、それを演出のテクニックと言ってしまえばそれまでですが、山田さんが自分の特性を意識的に作品づくりの中へ取り入れたと言えるかもしれません。また『けいおん!』シリーズにおいては、劇中のセリフだけでなく、手や足のモーションが人物の思いや立場を雄弁に語る演出がありました。そのほか、人物以外にも、背景描写や音楽の中から語られる要素を何かしら感じることもできるでしょう。
ぼくとしては、今後の作品でもそういうところを楽しみたいなあと思っています。
上記対談では『たまこまーけっと』についてややフライングな発言も飛び出していましたが、個人的にはさほど大した話ではなくて、どういう形であれ続編(新編?)ができるなら見てみたいと思っています。そうは言いつつも、自分の中では一応の完結を見た作品でもあるので、この後どのような作品世界を見せてくれるのか不安も少しあります。無理に話を引っ張っただけの展開にはならない!と思いたいところですが。

たまこまーけっと (1) [Blu-ray]

たまこまーけっと (1) [Blu-ray]

イベントはすでに終了しております(笑)。

『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を見た。

Tジョイシネマ京都にて舞台挨拶と合わせて鑑賞。
舞台挨拶付きのチケットは抽選応募形式なので、わざわざそれを求めたということはよっぽどの作品ファンと思われるかも知れませんが、ぜんぜんそういうことはなくて運良く当選しましたというのが実情です。もちろん嫌いな作品ではありませんが、テレビ放映分を毎週期待しながら鑑賞しつつも違和感を抱くところもあり、ぼくにとっては少しばかり屈折した印象のある作品です。
違和感というのは、放映版の最終話(11話)、こと終盤に見られる「かくれんぼ」のパートですね。見る人によっては登場人物と一緒になって泣いてしまうほどの感動エピソードかも知れないけれど、ぼくはあのくだりに芝居臭さ、話の流れありきで強引にキャラクターを動かして喋らせているような不自然さを大いに感じた・・・まあ、つまるところ好みの演出ではありませんでした。
それと、毎週見続けていると「次はどう来るんだろう」という期待感で作品の印象も押し上げられていったのだけれど、最後の最後で「ええっ?」と肩透かしを喰らうほどがっかりしてしまいました。それから、リアルタイムでの鑑賞後ずっとこの『あの花』から遠ざかっていまして、今回の映画鑑賞を前にしても「また大きな違和感で期待を裏切られるのでは?」という不安がありました。先日、約2年ぶりに録画していたディスクを見返しましたがやっぱり最終話付近の違和感は拭えませんでした。
前置きはこのくらいにして、劇場版の舞台は放映版から1年後ですね。
もっとも、作品の大半は放映分の再現なので、そういう意味では総集編的と言えなくもないのですが、あくまでも放映版から1年経った時点から過去を振り返るという趣向になっているので、そのあたりは例えば昨年上映された『魔法少女まどか☆マギカ(前後編)』とは性格を異にしていますね。
回想部分には、号泣オンパレードな最終話の描写もしっかり盛り込まれています。あのパートが躓き要因だった者としては「もう、早く終わってくれないかなあ」と何とも居心地の悪い気分もありました。まあ、あのパートがあるからこそ現在(1年後)のパートの穏やかなムードに癒やされるのかも知れませんが。
1年経った「超平和バスターズ」のメンバーたちは少しずつ変化が見られました。あなる(安城鳴子)はまだモヤモヤした感情(特に恋愛面)を抱えていますが、ゆきあつ(松雪集)やつるこ(鶴見知利子)はパッと見で落ち着いた印象、とくに私服姿のつるこはグッと大人っぽい雰囲気になっています。ぽっぽ)(久川鉄道)は5人の中で一番変わっていないかも知れませんが、じんたん(宿海仁太)は今までのふてくされた感じではなく随分と落ち着いた表情を見せているのが印象に残りました。ぼくにとっては、じんたんの穏やかさを見られたことが救いでしたね。
物語の詳細には触れませんが、特にじんたんが亡くなっためんま本間芽衣子)との再会そして別れにいたるプロセスについて「あれは決して無駄ではなかった、むしろ自分たちにとって有益なものだった」と振り返る姿勢が良かったと思います。過去にイヤなことがいろいろあったけど、もう過ぎたことだから(あるいは、自分もそろそろ大人なんだから)いいかげん昔に囚われるのはやめよう、というのではなくてもっとポジティブに受け止めているようでした。
まあ、誰もが過去にケリを付けているという訳ではなくて、例えば、あなるの抱えている想いのいっぱいいっぱいな感じ、何となれば洪水のように溢れ出てきそうな感じは新エピソードの中ではひときわ鮮烈でした。ファーストフード店でのくだりは最終話の再現よりも(しつこくてすみません)ずっとグッと来ますね。作中では、あなるの見せる不安定さが印象的で、今後もしかすると仲間の人間関係が危うくなる可能性をはらんでいるように見えます。
とはいえ、これ以上『あの花』としてのストーリー展開はおそらくないでしょうね。めんまが欠けた(成仏した)時点で物語はすでに終わっているわけで、残った5人の今後を物語として見せていくことは可能だとしても、それは『あの花』とは別のものではないでしょうか。また、これ以上回想によって彼らの過去を掘り下げる意味もなかろうと思います。
この劇場版は、各々の鑑賞者が(同窓会的なイベントを通じて)劇中人物の回想を擬似的に体験しているようなところがあります。個人的には、先述したじんたんの「無駄ではなかった」の思いに被せる形で、自分なりにこの作品を納得できたように思います。
上映前の舞台挨拶では、茅野愛衣さんが「映画を見て泣いて日頃のストレスを吐き出すもよし」的なことをおっしゃっていましたが、ぼくにとっては少し違うというか「泣いてスッキリ」じゃなくて「作品にまつわる今までのモヤモヤが割と解消できてスッキリ」な気持ちですね。いや、本当に見て良かったと思います。
(余談)
今回ゲットした舞台挨拶回の座席は二列目、一列目は全部空けられてたのでいたので事実上の最前列でした。京都限定という茅野愛衣さんの着物姿を近くで見ることができて良かったのですが、普段の映画鑑賞でこんな前の席をわざわざ選ぶことはないですね(視野角度の面でつらいので)。ただ、本編終了後に流れるスタッフロールの文字が向かって斜め上方へ移動して消えていくのが、劇中の「お焚き上げ」の煙のようでもあり、妙なところで感慨を受けました。

上記は、茅野さんの着物姿を伝える公式ツイート。

映画『風立ちぬ』を見た。

以下、メモ的に印象や気になった点など。

主人公の声について

庵野秀明さん(主人公・堀越二郎役)の声に違和感を覚えた人もいるでしょうか。確かにキャラクターの外見と比較すれば老けた声に感じたけれど、感情の起伏の少ないところが作品のテイストに合っていて却ってよかったと思います。
作品のテイストというか、主人公のひょうひょうとしたマイペースな佇まいがしっくりきたというか。仮に、もっと若くて溌剌とした声が当てられていたら、周囲の何もかもを放って仕事に没頭する姿に対する印象が変わっていたでしょうね。庵野さんの声を聞くと「ああ、こういう天然な性格だったのね」と納得できる印象でした。

主人公の人物造形について

堀越二郎という人については「ゼロ戦の設計者」くらいの知識しか持っていないです。この映画においてはキャラクターが実物からかなり改変されているのかもしれませんが、堀辰雄の小説『風立ちぬ』や『菜穂子』の要素を織り交ぜた作品構成になっているという予備知識があれば、目くじらを立てるほどでもないでしょう。
映画『風立ちぬ』のヒロインが「菜穂子」である理由 | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
ぼくは、映画鑑賞前に上のエントリを読んで、それからKindle版の『風立ちぬ』と『菜穂子』を入手しました。
2作品のうち『風立ちぬ』はさほど長くない小説なのでサクッと読めますね。主人公(語り手)男性の視点、結核に冒されたパートナーとの関係性、山中にあるサナトリウム(療養所)の描写など、一読して(漠然とでも内容を頭に入れて)から映画を見ると、割と作品世界が馴染みやすくなると思います。
映画『風立ちぬ』の主人公は仕事を抱えた多忙な人なので、小説版のようにパートナーに付ききりというわけにはいきませんが、たとえ短い時間でも愛する女性との時間を大切にしようとする主人公の思いは、可能な限りキャラクターの中に盛り込まれているのではないでしょうか。

戦争に対する見方

スタジオジブリ - STUDIO GHIBLI - 小冊子『熱風』7月号特集 緊急PDF配信のお知らせ
上記サイトで配布しているPDFを読めば分かるとおり、監督・宮崎駿さんの反戦スタンスは明確です。
さて、この映画においてどうかといえば、実際の戦争描写こそ出てこないものの、ラスト近くに見られる戦闘機の残骸描写、ゼロ戦は一機も戻って来なかったという主人公のセリフなど、控えめではありますが戦争に対する批判的な見方は窺えます。また、堀越二郎たち若手社員の有志研究会においては「機関銃を積まなければもっと機体が軽くなる」という冗談交じりの発言が出てきますし、夢の中に出てくるイタリア人技師は本来爆薬を積むはずの戦闘機に一般人の乗客を乗せて遊覧を楽しんでいます。
映画の堀越二郎は仕事として戦闘機設計に関わるものの「彼が理想としていたのは、本当に作りたかったのは戦闘機じゃないよ」というのが作品のメッセージかなと思いましたが、それだけではないんですね。先に述べた戦闘機の残骸、夢のように現れる菜穂子など「自分が直接手を下したわけではないにせよ、結果として自分が彼らを死に追いやってしまった」という内省的な姿勢も感じられました。
また、戦争とは直接関係ありませんが、同僚との語らいで「飛行機の取り付け金具を買う金で国内の貧しい子供たちの食費がまかなえる、それでも自分は飛行機設計のほうを選ぶんだ」との発言*1がありますし、多くの犠牲の上で自分たちは仕事をしているんだという自覚が見られるところも印象的でした。
まあ、終盤の夢見心地なシークエンスで堀越二郎、ひいては日本という国家が戦争に関わったことをしっかり批判したことになっているのか、といえばちょっと微妙なところですが、宮崎さんほか制作陣は人々の死を直接描くことよりも映像としての美しさを優先させたかったのではないでしょうか。
そのあたり、自分の追い求めるものを最優先に動いた映画の主人公と宮崎駿をオーバラップして描いているんだ・・・といえばかなり甘い評価かも知れませんが、映画の中で言いたかったのは戦争のことだけではなくて「自分が理想を追い求めることによって、却って人を犠牲にしてしまう」という部分を「大局的には戦争、もっと小さいところでは自分と家族の関わり」といった具合に、いろんな形によって作品の中で見せようとしたのではないかと思います。

その他

単純素朴な言い方になりますが、とても綺麗な映像の作品でした。
不意に起こった風で、帽子が飛ぶ、パラソルが飛ぶ、紙飛行機が飛ぶ、といったシークエンスの共通性もいいですね。おそらく作品タイトル『風立ちぬ』の「風」を念頭に置いた描写だと思いますが、風が起こることで人物たちが動き、そこで若い男女の恋も芽生えると、なかなかロマンチックな趣向でした。
主人公の妹などは成人後も「いかにもジブリ作品らしい」少女キャラクターのデザインに見えますし、夢の遊覧飛行機が出てくるパートは過去作品いくつかを思い起こすところですが、今回の作品は総じて大人の話がメインですね。そういう意味で庵野秀明さんの「老けた声」を使ったのは良かったと思います。

*1:この部分は、堀越二郎の発言か同僚の発言か、ハッキリと覚えていません。ごめんなさい。

映画『ハル』を見た。

4月の頭まで『たまこまーけっと』のことを書いて以来、ブログのほうは2ヶ月ばかり留守にしていました。
さて、今回鑑賞した作品『ハル』は、上映時間50分の「中編」にカテゴライズされる長さのアニメーション。途中、唐突な展開に戸惑い、もう少し長い尺だったら話の流れを理解できたかも・・・と思うところもありましたが、映像(とくに背景)の美しさ、見慣れた京都市内の光景には概ね満足できました。

作品の背景描写について

鑑賞中に気付いたところを列挙していくと、四条通鴨川デルタ、出町柳駅錦市場、四条木屋町、夷川発電所、錦天満宮などなど。劇中の神社については一見してどこだか判別できませんでしたが、公式サイトの情報によれば八坂神社とのこと*1
作品前半では市街を見下ろしたカットが出てきましたが、たぶん大文字山からの俯瞰でしょうね。

上の写真は5月に山登りをした際、大文字山の火床付近から撮ったものです(山頂からだと木々が視界を遮ってしまいます)。自分の経験と重なる風景が期せずしてスクリーンに出てくると嬉しいものです。
あと、亀の形をした飛び石のある鴨川の描写も目立ちました。冒頭のシークエンスでは川に流される少年の帽子にカメラを置いたようなショットがありましたし、クルミの自宅シーンでは床スレスレの低いカメラアングルなど、アクセントとして面白い構図が楽しめました。また、中盤以降に出てくる疏水の場面では水の描写がとても綺麗だったと思います。
クルミの自宅は、昔ながらの木造建築。台所近くに吹き抜けがあったり、坪庭があったりするところは『たまこまーけっと』の北白川家にも見られる描写でした。自宅の場面ではバックに叡山電車と思われる走行音が流れていましたが、公式サイト情報だとロケーションは西陣だとか。冒頭には「貴船口」の駅看板も見えたものの、現実の位置関係が必ずしも反映されているわけではないみたいですね。
祇園祭のシーンも出てきましたが、鉾が細い通りを抜けていくところは新町通でしょうか(昨年ぼくは御池通から山鉾巡行を見ていましたが、残念ながら鉾が新町に入っていくところまでは追えませんでした。機会があればトライしたいところ)。
余談ですが、鴨川デルタや夷川発電所などは、7月から放映されるTVアニメ『有頂天家族』の原作小説にも言及されているのでこちらもチェックしたいです。

話の展開について(ネタバレ注意)

飛行機事故で亡くなった少年ハルそっくりに改造されたロボットが、事故以来ずっと心を閉ざしている少女クルミと交流を深めていく流れですが、2人の関係が恋愛要素を帯びていく展開がやや唐突に感じました。その違和感は(これまた唐突な)2人の立場逆転劇で何とか相殺しようと試みられているようであるものの、いささか説明不足の印象が否めなかったですね。
どうせなら、ハルとクルミの両方がすでに亡くなっていて、それぞれに似せて作られたロボット同士に恋が芽生える話に持っていくほうが意外性があって面白そうなんですが、クルミ役・日笠陽子さんの歌うエンディング曲の歌詞は終盤の「逆転」を踏まえたものになっているので、まあその線で納得するしかないのかと腑に落ちない部分もありつつ、曲はいい雰囲気でした。
あと何回か鑑賞すると(とくに作品前半の描写・展開について)そうか、あの時のあれはそういう意味だったのか!としっかり納得できるのかも知れませんが、1回見ただけでは戸惑いのほうが大きかったですね。
そうした違和感を抱きつつも、大切な人(亡くなった人)との思い出というのは、儚いというか夢のようなものであり、時が経てば自分の中でも不確かなものになってしまう・・・という部分をちょいとひねった演出で表現しようとしたのかなとか、そんな風に感じるところもありました。
細かいところだけど、介護施設にいるおばあちゃんたちの口調が関西弁風だったり標準語風だったり、統一されていないところが気になりました。ほかのキャストはみんな標準語口調なので無理に方言テイストを入れなくていいのにと思ったり。

『たまこまーけっと』10〜12話の感想

放送終了から少し日が経ってしまいましたが、3話ごとのレビューを今回でしめようと思います。
一応「10〜12話」としていますが、それ以前のエピソードや描写に対する言及もあります(とくに最終話である12話では、過去エピソードとのつながりを感じさせる演出が多かったので)。

みどりについて

10話がシリーズ3回目となるみどり回でした。前の9話ではもち蔵とたまこの関係性が目立っていたので、その次に「恋敵」を出すのはごく自然な流れですね。
それはともかく、文化祭での振り付けを任されたみどりが誰にも相談できずに一人で抱えて悩んでしまう展開、これは2話で提示された「みどりからたまこへの想い」が誰にも明らかにされない点を別のバリエーションで見せているようでした。
また、10話は5話からの流れで見ることができます。5話の会話を振り返ってみましょう。

みどり「ねえ、たまこは大路のことどう思ってるの」
たまこ「どうって・・・幼馴染だよ。というか餅屋仲間」
みどり「そうだよね、じゃあわたしのことは?」
たまこ「みどりちゃん?みどりちゃんは・・・大好きだよ?」
第5話の臨海合宿・遠泳の場面より

5話に見られる「大好きだよ」がたまこからみどりへの(あくまで友達としての)親しみ、それ以上のニュアンスを持たないということ。10話はその延長線上にあると思います。たまこがみどりを抱きしめるのも5話と同じ文脈にあって、たとえ空間的な距離が縮まってもそれはそれ、ふたりの関係性が一線を越えることはないんだなあ、と思いながら見てみるとなかなか感慨深いものがありました。

みどりはメインキャラの中で感情の発露が分かりやすい子なので、話の中心に据えられると映えますね。
また、11話以降は(10話のラストでチョイが口火を切ったことをきっかけとして)お妃候補の話題が持ちきりで、それに対してみどりは人一倍焦りを見せていました。そして12話では、たまこが(商店街が静かになったことから)母の死をフラッシュバックしそうになったとき、みどりがたまこの元に駆け寄ろうとするのですが、デラに先を越されてしまいます。デラが身を挺してたまこの口を封じる描写は1話の反復ですが、それに加えてみどりの残念さも窺えました。
また、お妃問題の誤解が解けた後、みどりともち蔵が顔を見合わせて微笑む場面は5話の反復であり、たまこへのアプローチに関しては両者決着つかず。さらに言えば、12話ラストでもち蔵がたまこへの誕生日プレゼントとしてデラを贈ってしまうくだりは「デラに先を越される」という点で両者の相似性が見られるのも面白いところです。

青い鳥というモチーフについて

12話の後半、王子とともに母国へ戻るチョイが、別れ際にたまこに手渡したのが青い折り鶴でした。

この折り鶴が青色*1というのは、童話『青い鳥』からの発想と考えて間違いないでしょう。つまり「探していたものは、実は自分のすぐ近くにあった」という意味を提示する演出意図だと思います。
チョイが「探していたもの」は王子のお妃であり、それがたまこではないことがその前のくだりで判明しています。とすれば、チョイが「青い鳥」をたまこに差し出すことにはどういう意味があるのでしょうか。そして「自分のすぐ近くにあった」ものとは何でしょうか。
興味深い考察を見かけたので紹介します。

最後に、私にはチョイがお妃候補占いをすることに躊躇しているように見えました。また、チョイの首筋に何かあるかの様な描写もありましたが、結局それが何なのかは詳しく説明されることはありませんでした。その答えは、視聴者各自で想像してほしいということなのでしょうか?
『たまこまーけっと』最終話感想: 忙しなく暇つぶし


なるほど・・・言われてみると確かに(上は12話からのキャプチャー)。上記引用を手がかりに考察してみます。

チョイに関しては、9話以降に着ているパーカーのデザインにも注目したいです。
彼女の着ているパーカー、左の腰辺りに「青い鳥」をあしらったワンポイントが見えます。このワンポイントが「青い鳥」なのは、チョイが「すぐ近くにあるのに気付かないもの」を示唆しているのでしょうし(通常の姿勢では自分の視界に入ってこないので)、そこから類推すれば「チョイの首筋」をアップで見せるカットもまた、折り鶴やパーカーと同様の示唆を与える描写と言えるのではないでしょうか。
ここで勇み足で結論を言ってしまうと、これは「チョイが探していたのは王子だった、王子のお妃となるのは他でもないチョイである」ことの示唆ではないかと思うのですが、いかんせん首筋に「お妃の印」であるほくろがあるのかどうかには何ら言及していないので、鑑賞者サイドではっきりした確証を得ることはできませんでした(このように、多くを語らない、明確な答えをぼかした演出は『たまこまーけっと』の中でしばしば見られる要素ですね)。

探しものについて

見返していて気付いたのですが「青い鳥」のモチーフは折り鶴やパーカーだけでなく、1話の時点から登場しています。

初対面のたまこによってデラが花屋から放り出される場面です。
花屋の出入口ドアそばにある「鳥小屋」のようなもの、形状からして郵便受けだと思いますが、注意して見るとその屋根に青い鳥の乗っていることが判ります。つまり「青い鳥」は作品の最初から意図的に仕込まれていたモチーフというわけですね。これと同様の仕込みとしては「探しものはいつも、そばに隠れてるの」で始まるエンディング・テーマ曲『ねぐせ』が挙げられるでしょうか。
振り返ってみると『たまこまーけっと』は「探しもの」をめぐる物語でもありました。たまこにとっての「探しもの」は9話で解決し、チョイの「探しもの」は完全な解決とはならないものの、うさぎ山商店街には答えがないことが判ってひと区切りが付きました。
作品後半ではチョイのほうが目立ってしまいましたが、デラもまた「探しもの」を追い求めていました。デラにとっての「探しもの」は何だったのでしょうか。建前上は「王子のお妃」ですが、チョイとの関係がいささかギクシャクしているところを見ると*2、本音は別のところにあるような気もします。
さて、12話終盤で商店街を出て行くと宣言したデラが「鳥小屋」のある花屋に飛び込んでしまったのは、チューベローズの香りに誘われてのことでありますが、それだけでしょうか。1話の時点ですでに「彼の探しもの(=帰るべき場所)は、故郷ではなく商店街であった」ことが示唆されていた・・・と見ることも可能ではないでしょうか。いや「帰るべき場所」という表現でデラと商店街を結びつけるのはやや牽強附会かも知れませんが、鳥小屋といえば、かんなが以前こんなものをこしらえていたこと(8話、下記キャプチャー)を振り返ってみると何かしら宿命めいたものを感じるのであります*3

もっとも、12話でデラが飛び込んだのは「鳥小屋」そのものではありませんでしたが。

その他、気付いた点

  • 12話の商店街が静まる場面:6話の反復もしくはバリエーション。6話ではセミの抜け殻を見せるなど、さりげなく「死」を匂わせる演出もあり、商店街の静けさ(毎日がお祭りのような賑やかさなのに!)にたまこが敏感に反応する体質であることを示している。
  • 12話のかんな「一羽丸焼き、こんがりロースト、スパイスたっぷり、からっと唐揚げ」:8話「醤油、みりん、にんにく、生姜ひとかけら、一晩熟成」のバリエーション(そうか、かんなはあの時から食べることを考えていたのか・・・)。

好きな場面・描写


10話より。デラの踊りも良かったですが、史織さんの装いにも注目。
後ろにボタンのあるタイプのカーディガンでしょうか、キャミソール(?)の上にちょっとだけ背中が見えていて色っぽいですね。
そういえば、けいおん2期27話での梓も背中の露出が目立つ服装(あれは夏の装いですが)だったと記憶しています。衣服や着こなしによって女子の胸元を強調して見せる演出は他作品でよく見かけますが、それとは対照的なさりげない色気アピールは山田尚子さんの好みでしょうか。

12話より。舞台モデルは年末の賀茂大橋ですね。
この辺り、というか鴨川周辺では12月から1月にかけてユリカモメをよく見かけます。時折、何かの拍子に何十羽ものユリカモメが一斉にバタバタっと群れをなして飛び立ち、周囲を旋回するのを何度か見たことがあって、あの群れの中に丸々と太ったデラが混じっていたら面白いだろうなと思いました。
上記カットでは、ユリカモメ、デラ、うどん屋さん、自動車と、目立つモチーフをすべて白色でまとめて描いているのも面白いですね。

最後に

いろいろと細かい描写に注目して、それらのつながりを見ていくと面白い作品ですね。
自分は今のところ、まだこの作品のテーマ性や世界観などを述べるレベルには達していません。それよりも、ディテールへ注目することで思いもよらないつながりが感じられる、そういう楽しさのほうに関心が傾いています。放送自体は終わってしまいましたが、もう少しコミットして新しい発見をしてみる余地はあるかなと思っています。
思い返せば『映画けいおん!』においても、廊下に落ちた飴の包み紙(後輩が無意識に先輩の軌跡をなぞる)や、1台だけ赤い観覧車のゴンドラ(部活でただひとりの後輩である梓を示す)など、劇中モチーフにそっと意味合いを感じさせる演出を見かけました。これは制作スタッフの好みだったのでしょうけれど、個人的にも言葉(セリフ)で全てを語ってしまうのではなく、さりげなく気付きのきっかけを残しておく趣向はとても面白いと思うので、この『たまこまーけっと』もそういう面で楽しめました。
今回のエントリでは触れませんでしたが、音楽面でのこだわりも興味深いところがあるので、BD/DVDの特典となる劇中曲CDやサウンドトラック盤にも注目したいですね。

*1:青い折り鶴は9話にも出ています。ユズキ君の大福を食べようとしたデラにチョイが投げつけます。

*2:たとえば11話、チョイが怒るからたまこに対していやいや敬語をつかっている場面など。

*3:まあ、鳥小屋云々は措くとしても、たまこがデラの足をもって舞い降りるオープニングの描写も、今にして思えばデラが商店街という世界に引きこまれていく宿命をあらかじめ見せていたのかも知れませんね。

『たまこまーけっと』の劇中曲について(Hogweed)

先日アップされていた『たまこまーけっと』の音楽プロデューサー・山口優さんのインタビュー記事を読んでみたところ「劇中曲」として紹介されている曲の話が大変気になったので、以前に自分が書いたエントリのことを交えながら、ちょろっと書いてみます。
まずは、インタビューから一部引用します。

インタビュー記事および、事実誤認の訂正

Hogweed「Excerpts from “The Return Of The Drowning Witch”(Part1~Part9)」

――エンディングによくクレジットされている曲ですね。

山口「これはプログレですね。マスターがプログレ好きという設定で、ああいうおどろおどろしい曲なので、お客さんが来たらいろいろ変えるけど、ひとりでいるときはいつもそれ聴いているという設定の曲です」

中村「だからいつもかかっているんですよね(笑)」

――設定のお話とは異なりますが、これはどういう発注だったんでしょうか。

山口「監督、まだお若いじゃないですか。プログレとかあまり知らないだろうと思ってたんですよね。プログレにもいろいろなタイプがあるけど、まずは松前(公高※作曲家)に任せてつくってもらったんですよ。そしたら監督からNGが出た。『このプログレじゃない』って(笑)。わー、わかってた!って(笑)。そこから先は監督の中のプログレ感に合わせていきました。具体的に言えば、作曲や演奏の複雑さを追究した方のプログレじゃなくて、初期クリムゾンとかピンクフロイドみたいな情念系ですね。いまだに監督がなぜそんなの聴いてたんだろうとは思いますけど(笑)」

――マスターがプログレ好きという設定も監督からのものだったということですよね。

中村「『星とピエロ』のマスターがああいう感じの人なんで、人物設定からプログレ好きなキャラクターであろうというところからの発注です。で、プログレの中でもダーク系(笑)」
ニュータイプ4月号連動企画! 「たまこまーけっと」に登場するレコード曲の秘密に迫る - ライブドアニュース

たまこまーけっと』3話まで見た時点で、ぼくは劇中曲について以下のようなことを書いていました。

曲目といえば、毎回エンディングに劇中曲として表示される「Excerpts from “The Return Of The Drowning Witch” (Part1-Part9)」 Hogweedというのが少し気になっています。直訳すると「『溺れる魔女の帰還』(パート1〜パート9)からの抜粋」という変なタイトルですが、

  • 曲名から:Frank Zappa "Drowning Witch"
  • 曲名およびアーティスト名から:Genesis "The return of the giant hogweed"
  • Part云々の表記から:King Crimson "Larks' Tongue In Aspic"のタイトルがついた一連の楽曲

単語単位で検索してみると、上記のような実在の曲名がヒットしたりします。関連する動画を確認してみるとどれもプログレッシブ・ロックのカテゴリーに入るであろう、かなりアクの強い楽曲ばかりで、とても本作品に流れるゆるやかなテイストとは相容れないのですが、曲のネーミングはスタッフの遊び心から生まれたものでしょうか。
『たまこまーけっと』1〜3話の感想 - la banane brûléeの日記

これは大いなる誤認を含んだ記述内容でした。
山口さんが「ひとりでいるときはいつもそれ聴いている」と述べているのを検証してみれば一目瞭然なのですが、Hogweedというアーティストの楽曲「Excerpts from “The Return Of The Drowning Witch” (Part1-Part9)」は、劇中でたまこ達が店に入ってくる前後のシーンのほんの短い時間(長くて1分、短いときは数秒)だけ聞くことができるシロモノなのです。つまりHogweedほかエンディングで「劇中曲」としてアーティスト名および曲名が紹介されている音楽と、それ以外の音楽は、まったく性格が別のもの*1でした(ぼくが「ゆるやかなテイスト」と感じたのは、その他の場面で掛かっている音楽、つまり「劇中曲」ではなく、将来「サウンドトラック」に収録されるであろう曲であり、自分がこれまで「劇中曲」を意識して聞いていなかったことを図らずも露呈する結果となりました。早とちりをしていたようでどうもすみません)。

Hogweedの曲を検証してみた

というわけで、実際に本編を見直して(聞き直して?)みた結果がこちらになります。

  • 1話バージョン:たまこが入店してから、マスターが「いらっしゃい」と応答するまで(約5秒)。
  • 2話バージョン:みどりとデラが入店してから、マスターが「いらっしゃい」と応答するまで(約8秒)。
  • 3話バージョン:店舗内のカット開始から、たまこのセリフ「朝霧さん、私やデラちゃんが迷惑かけてたら、ちゃんと言ってね」の途中まで(約20秒)。
  • 4話バージョン:客のいない店舗内、外では商店街の人々がデラを追い掛け回している(約16秒)。
  • 6話バージョン:みどりとかんなの入店から、みどりがネットで調べてきたイラストを出すところまで(約1分)。
  • 8話バージョン:たまこ・デラ・チョイの入店から、みどりがデラに鳥小屋を差し出すくだりまで(約1分)。

どの話数のバージョンも音量が小さく、ヘッドフォンをかけて注意深く耳を傾けなければさらっと聞き流してしまうレベルです(興味のある方、プログレ方面で耳の肥えている方は一度試してみてはいかがでしょうか)。

ハードなHogweed

2話でかかるバージョンはノイジーな音色、歪んだ音はギターなのかキーボードなのか判りませんが、8話までに流れたバージョンの中では最もハードでロック的なサウンドです。
ぼくはプログレッシブ・ロックのジャンルに詳しくないのですが、Hogweedの2話バージョンに似ているんじゃないか?と思える曲があったので紹介します。プログレの代表的バンドであるKing Crimsonが1973年に発表したアルバム"Larks' Tongues In Aspic(邦題は『太陽と戦慄』)"から冒頭曲"Larks' Tongues in Aspic, Part One"。

パーカッションの長い長い前奏に続いて、3:40辺りからノイジーなギターとドラムによる主題が始まります。この主題パートが2話バージョンのヒントになっているように思います。

マイルドなHogweed

2話以外のバージョンは、ストリングス系の音が目立つ(やや不穏な和音を含んでいるものの)おだやかな曲調だと思います。ストリングスの音色は「プログレ」との言及から推測すればやはりメロトロンかと思いつつも、生のヴァイオリンのようにも聞こえます。
というわけで、Hogweedのマイルドバージョンに近いかも知れない曲として、King Crimsonの"Larks' Tongues In Aspic”からもう1曲、メロトロンとヴァイオリンの両方が味わえるナンバー"Exiles"をライブ・バージョンでどうぞ。

1:56辺りから、たおやかなヴァイオリンのフレーズが堪能できます(そのバックに鳴っている分厚いストリングス系の和音がメロトロンによるものです)。

1話と2話の劇中描写について

たまこ(みどり)が入店するとそれまで流していた曲をストップします。マスターはここで(ほんの一瞬だけ)The Isley Brothersのレコード(アルバム"Brother, Brother, Brother")をちらっとジャケットから覗かせるのですが、プレイヤーにかけませんでした。
たぶん「個人的な趣味丸出しのHogweedはさすがNGとして、アイズレーはどうだろうか・・・いや、この子たちにはちょっと大人っぽすぎるかも知れない」との躊躇があったのでしょうね。劇中曲について「プログレ」という色合いが見えてくると、ごく短い描写にもマスターの思案が窺えます。その後、別のレコードをプレイヤーにかけるまでのマスターの心情を想像してみるのも楽しいですね。

6話と8話における劇中曲の扱い

しかし、6話と8話におけるHogweedの曲は1〜3話に比べると長く流されています。友達が来店するまでの間、女子高生たちの耳にしっかり入っているであろうこと推測できます。この点では山口さんの発言「お客さんが来たらいろいろ変える」からややずれています。これはどういう意味を持つのでしょう。
ひょっとすると、マスターは「プログレのHogweedであっても、割と落ち着いた曲調のトラックならそのまま流してもいいんじゃないか」と判断したのかも知れません。
あるいは「女子高生は自分たちのおしゃべりに夢中だから音楽には耳が向いていない、だから自分の趣味の曲をそのままかけていても大丈夫」と踏んだ線も考えられます。6話と8話では女子高生3名、デラもよく喋りますから合わせて計4名が来店しています。3話までの店内は「喧騒から離れてゆっくりと落ち着ける場所」だったのが6話以降は「客同士が遠慮なく賑やかにおしゃべりする場所」に性格が変わっている点も要注目です。マスターは来店した客が店内をどういう風に使うかを常に推し量った上で選曲しているんだと思います(もっとも6話のように選曲が不興を買うケースもありますが)。
ともあれ、Hogweedの曲は順次発売されるBD&DVDの特典ディスクにいずれ収録されるでしょうし、そこでは本編でほんの一部しか聞けなかった曲の全貌が明らかになっていくと思うので、今から期待しています。

その他プログレ

以前のエントリでも触れた曲ですが、"Hogweed"がタイトルに含まれている曲として、Genesisが1971年に発表したアルバム"Nursery Cryme"に収録の "The return of the giant hogweed"の演奏映像を見つけたので、参考までに引用します。

ギターのタッピング奏法から始まって、激しいパートもあれば静かなパートもあり、個人的にはメリハリがあってけっこう聴きやすいロックナンバーだと思うのですが、およそプログレをはじめ古い洋楽ロック全般に縁のないであろう女子高生の集うシチュエーションにはまったくもって似つかわしくない音楽ですね。
こちらは、比較的ゆったりした感じのプログレ系ナンバー。

1970年にリリースされた、Soft Machine*2のサード・アルバム、その名も"Third"より"Moon In June"。最近ネットで見つけたのですが、この曲なんかは「星とピエロ」の店内でさりげなくかかっていそうな雰囲気です。このYouTube映像は9分ほどですが、スタジオ盤では20分近くかけて演奏されています。マスターはお客さんの来ていない時間を見つけてこのアルバムをじっくり聴きこんでいるかも知れません。
ところで、雑誌Newtype4月号の付録「うさぎ山商店街だより」において、Hogweedは「アメリカで78年に結成されたプログレッシブ・ロック・バンド」と紹介されています。キング・クリムゾンピンク・フロイドが活動を始めた時期からは10年くらいずれているようですが、彼らに影響を受けた後発組というポジションでしょうか。

Lark's Tongues In Aspic: 40th Anniversary Series

Lark's Tongues In Aspic: 40th Anniversary Series

Third (Bonus CD)

Third (Bonus CD)

*1:けいおんシリーズでいえば「放課後ティータイム」の楽曲とサウンドトラック収録曲との違いですね。

*2:このSoft Machineというバンドは、プログレッシブ・ロックという形容がふさわしいのかどうか判りません。ジャズ・ロックと形容される時期もあり、フュージョンに近い時期もあり、所属メンバーやその志向から音楽性はいろいろと変わっているようです。念のため。

『たまこまーけっと』7〜9話の感想

たまこまーけっと』を3話ごとにレビューしてみる企画(?)の3回目です。今回は、7〜9話のうち9話の話が多めになっています。

まず9話について

9話は伏線回収的なエピソードでした。いや、伏線といっていいのかどうか判断が難しいところもありますが、とりあえず8話までの描写とリンクスしそうな要素、気になった点を以下にリストアップしておきます。

  • ひなこ(たまこの母)の「思い出の歌」:1話で提示されていたテーマ(たまこには何の歌か分からなかった)。父・豆大がひなこのために作った曲だと判明する。
  • ユズキ君:4話に登場したあんこのクラスメイト。彼が引っ越すタイミングであんこが思いを伝えることができた(恋愛レベルには踏み込んでいないけれど)
  • もち蔵の誕生日:10月10日は「おもちの日」であるため家業が忙しく、周囲から祝ってもらいにくい境遇。大晦日が誕生日であるたまこ(1話で言及)との比較、2人の相互関係にも注目したい。
  • 自宅のレコードプレイヤー:7話でチョイが寝ていた部屋にあるレコードプレイヤーは、ひなこの持ち物だったかと思いきや、かつて豆大が愛用していたものと思われる(9話終盤の回想カットより推察)。また、レコードプレイヤーは1話時点から母親やレコード店マスターとの関連を感じさせるモチーフでもある。
  • 母に供える花(一輪挿し):1話から花屋がたまこに花を手渡す描写あり。8話では鏡台に花が添えられているカットあり。母親に関する言及は9話が始めて。
  • 糸電話:もち蔵の投げた紙コップがたまこの額を直撃するくだりは2話と同じ。もち蔵からたまこへのアプローチはうまくいかないとの示唆か。
  • もちに関係する名前について:自分の名前と好きな相手との関係性(5話のもち蔵)。もち蔵の言動とは異なるが、あんこと豆大に類似した描写が出てくる(9話)。

9話で「思い出の歌」などの伏線回収をやったのは、おそらく次回以降、別のテーマ(王子のお妃探しほか)に集中するためのストーリーの整理が目的であろうと思います。とりあえず1クールの3分の2を経過した所でひと区切り、といったところでしょうか。

デラについて

チョイが登場した7話以降は(鳥占い、通信機能復旧などの目的から)スパルタ式にしごかれ、8話ではたまこまでがチョイに加担し、デラ自身も結局その流れに乗る形で自主トレまで敢行しています。9話に入ると、たまこの家で湯の入ったヤカンを台所に取りに行かされたり、買い物を頼まれたりと、6話までの自由気ままさとは対照的な「パシリ」に成り果ててしまいました。
ところで、デラは人間の年齢でいうと何歳くらいなのでしょうか。個人的な印象ですが、まさかたまこ達と同年代とは思えないし、「娘よ」などの口調から40代くらいの中年ではないかと勝手に思っています。
これまでを振り返ってみると、デラは、曲がりなりにも周囲の人間関係構築に一役買っています。それなのにどういうわけか顧みられることがほとんどなく、畜生に生まれたゆえか、はたまた醜悪な容貌であるが故か、自分の娘くらいの世代にいじられたりパシリにされたり、自由な行動(恋も)ままならない哀れなおっさんでしかなく、そう思うと気の毒に思えてきます*1。さて、彼自身には「春」が来るのでしょうか(それは朝霧さんのペットショップで解決すべき問題?)。

チョイについて

王家に仕える占い師であり、デラを占いの道具として使っているため、デラに対しては常に厳しい態度で接しています。また、容姿・言動ともに、けいおん1期に登場した時点の中野梓を彷彿させるキャラクターですが、チョイがつらく当たる相手はデラだけなので、その点ではちょっと梓よりもキツい印象が強くなっていますね、今のところ。
それはそうとして、たまこ達の高校に着ていく制服の話題や、私服のおしゃれの話題になると、やや顔を赤らめる描写が出てきます。
たぶん、彼女が生まれ育った島では同年代の子たちと一緒に学校に行ったり勉強したり遊んだり、そういう経験は今までなかったのでしょう。今後、チョイがデラと同じように周囲の心地よさによって自分のミッションを忘れてしまうのかどうか、注目のポイントですね。

「星とピエロ」マスターについて

このお方も気になるので、引き続きフォローします。

  • 7話:登場なし(たまこが「波の音が入ったレコード」を貸してもらったとの言及あり)
  • 8話:セリフなし。たまこ達の来店中にバッハ「トッカータとフーガ」を流す、1人でいる時にベートーヴェン交響曲第5番」を流す(既成曲、しかもクラシック曲を流すのは初めて)。
  • 9話:いつもより口数が多く、かつて豆大と自分が在籍していたバンド「ダイナマイトビーンズ」の演奏ビデオをたまこ達に見せる。恥ずかしがる豆大から「邦夫さん!余計なことしゃべんないでくださいよ!」と突っ込まれる。

9話を見て「えっ、マスターが普通に喋ってる・・・!」と驚いた方が多いかも知れません。いや、ぼくも驚いたのには違いありませんが、上記の7話の描写を見ていると、ちゃんとたまことコミュニケーションがとれていることの察しは付きます。もともと口数が少ない人物ではあるものの、対人コミュニケーションにおいて特に難があるわけではないのでしょう。これまで誰かと面と向かって会話する場面が出てこなかったのは、彼が無口だからだけでなく「喋る場面をあえて見せないように演出した」という意図ゆえかも知れません。
このマスターについては、親の遺産で食っている、一度は上京したもののトラブルを抱えて戻ってきた、商店街の人たちからシカトされている等々、まあいろいろとネガティブな方面で想像していたのですが、ぼくが予想したほどには屈折した経緯を持つ人物として設定されていないようにも思います。

出会いと別れ

1話でデラ、7話でチョイがそれぞれ商店街エリアにやってきました。彼らが知らず知らずのうちに商店街の人々が醸す心地よさに魅了され、このまま離れられなくなってしまう展開の可能性もあろうかと思います。
しかし、物語には「出会い」がある一方で「別れ」の描写もあります。7話のさゆりさん(風呂屋の娘)、9話のユズキ君ですね。
もしかすると、作品終盤においてもっと大きな「別れ」の場面(つまりメインキャラが大きく関係してくる「別れ」の場面)を用意していて、7話や9話はその前触れではないのか、という予感もしています。
ただ、7話の描写を見ていると「別れ」に伴う寂しさや悲しさをことさら強調する演出にはならないだろう(希望的観測ですが)とも思います。人物各々のレベルでは寂しい悲しいの感情はあるとしても、作品全体をそうしたトーンで染めてしまわない、というか。
ここでちょっと脱線しますが、先日、小津安二郎監督の映画『晩春』をDVD鑑賞してみたところ、作品のラスト近くで、結婚して家を出て行くヒロインの父親が林檎の皮を剥く静かなシークエンス、ことさら感情を掻き立てない演出が『たまこまーけっと』7話のテイストと似ているなあと感じました。
けいおんシリーズについて「ローアングルで固定ショットの多い構図は、思いがけず小津映画を彷彿させもする」との言及がありますけれど*2カメラワークだけでなく、人物描写やメンタリティの部分でも山田尚子さんの監督作品と小津作品には通ずるものがありそうな気がしています(小津作品は『東京日記』『麦秋』『晩春』*3の3本しか見ていませんが)。

エンディング省略の趣向について

9話は、いつものテーマ曲「ねぐせ」が流れるエンディングではありませんでした。通常のエンディングを取らないのは尺の都合(本編のエピソードがいつもの時間帯に収まらなかった)でしょうね。
それに加えて、毎回Aパート開始から少し経って挟まれる「サブタイトルの読み上げ」も9話にはありませんでした。山田尚子監督の前作であるけいおんシリーズにおいては一度もこういうことがなかったので、9話はかなり異例のことではないかと思います。
どうしてこういう趣向を採ったのか、原因は判りませんが、おそらく9話は作品の中で大きな節目だという印象付けの意図はあったかなと思います。節目とは、前述した「過去エピソードとのつながり」であるほか、作品終了後に振り返って「ああ、やっぱり9話はターニングポイントだったな、大きな意味を持っていたな」と分かるものかも知れません。
あと、エンディングについてですが、単に通常の尺に収まり切らなかった本編エピソードを流すだけでなく、ダイナマイトビーンズの曲にしっかりとエンディングテーマの役割を担わせているんですよね。また、作品の中で鳴らされていた(劇中人物に聞こえていた)音楽がそのまま作品の背景音楽にもなっている演出はけいおん1期9話や2期26話にも窺えるものであり、非常に好感の持てるところでした。

もうすこし音楽について

豆大が部屋でひとりギターを爪弾くくだり、あれは「一人の時間を過ごしたい」というよりも「妻と二人の語らう時間をとりたい」という気持ちの現われなんじゃないかと思います。元々ひなこに宛てて作った曲なのだけど、一方的に自分の気持ちを伝えるための曲だったのが、今ではギターを弾いて歌うことで彼女と相互にコミュニケーションがとれている。豆大はそんな気持ちを持っているんじゃないでしょうか。物語として見れば、たまこが彼を部屋から引っぱり出さないことには先に進まないし面白くならないのは確かだけど、彼にとっては「妻と語らう時間」を邪魔されたという点でいささか不本意な展開だったかも知れません。
山田尚子さんは以前に「みんなとしゃべるための1個のツールとしての音楽」という表現をしています*4。これはけいおんシリーズについての言及でしたが、この『たまこまーけっと』においても劇中で音楽を扱う場面では変わらない姿勢をとっていると思います。言葉でなく音楽を使っての語りを試みるマスターさんはその端的な例ですね。

最後に

冒頭でふれたように9話は「伏線回収回」であり、作品の最終回辺りで明らかにされると思っていた「母親の思い出の歌問題」があっさり解決してしまったのには少しビックリしましたが、たまこの母親に関するエピソードはここでひと区切りでしょう。ひなこが亡くなっていることは雑誌等のインタビュー*5で触れられていますが、作品の中で突っ込んで言及されることは今後もなさそうに思います。
前述のように、9話はエンディングを省くほどのエピソードてんこ盛りでしたが、制作サイドとしては、最終話付近に要素を詰め込んでせわしない幕引きにしたくない故の配慮が働いたのかも知れません。個人的には前シーズンの『中二病でも恋がしたい!』では終盤のせわしなさにやや不満を覚えたので、本作品では余裕をもってゆったりと心地の良い終幕を迎えられることを期待しています。

晩春 [DVD]

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*1:ふと、最近読んだ太宰治版のカチカチ山(お伽草紙http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/307_14909.html)に出てくる中年男の狸がオーバーラップしたのですが、デラを中年狸に見立てるならば、相対する彼女たちの属性はズバリうさぎですよ(なにしろ街の名前が「うさぎ山」ですから)。そのうちデラは、うさぎの着ぐるみ姿のかんなに櫂でバシバシ殴られて泥船ごと海に沈められるんじゃないかと勝手に想像しています。

*2:キネマ旬報」2011年12月上旬号。

*3:鑑賞中は気づきませんでしたが『晩春』では作品終盤まで「母の不在」に言及しないとの指摘を見つけましたので紹介します。これも『たまこまーけっと』と共通性を感じさせる点です。→晩春 〜映画の読解 (5) - 映画なんて大嫌い!

*4:「CUT」2010年8月号のインタビュー。

*5:「オトナANIMEDIA」Vol.7 吉田玲子さんへのインタビューなど。