『たまこラブストーリー』鑑賞雑記(その2)

はじめに

映画の公開から4回鑑賞しました。この鑑賞回数が多いのか少ないのかは分かりませんが、前回のエントリを書いたあとに見えてきたこと、放映版との関連性、音楽のことなど、気になった点を書いてみます。
自分の気になった点から制作意図を探ってみようとしましたが、まだまだ作品評とするには程遠い内容であり、例によってネタバレ全開で書いていますので、未見の方はご注意ください。

放映版との関連性について

映画における作品要素のうち、放映版と関連ありそうな点をピックアップしてみます(以下「〜話」とあるのは全て放映版の放送順です)。

バトンと紙コップ

言わずもがなのポイントかも知れませんが、記しておきます。
映画の序盤で、

  • 投げ上げたバトンがたまこの頭に落ちてくる
  • もち蔵の投げた糸電話の紙コップがたまこの額を直撃する

という場面が出てきますが、これは1話と2話の再現でもあります。

放映版の描写では、たまこに対して「運動神経が鈍い、ドジなキャラクター」の印象で終わってしまうところですが、映画ではそこに「キャッチできない」という点を共通項として「自分に対するもち蔵の思いをキャッチできない」という、たまこの設定が新たに追加されました。既存の描写・設定を活かしつつ、これまでと違った新たな意味合いを持たせる面白い演出ですね。

祖父・福が餅を喉につまらせるエピソード

もち蔵の挙動に注目です。
1話では「たまこが餅を喉につまらせた!」と思った(実はデラだった)もち蔵がとっさにたまこの方へと駆け寄ります。この描写は、たまこ達が救急車に同乗すると聞いて「俺も行きます!」と発言する映画版のシークエンスと対応しています。1話は映画よりもずっとコミカルな話の流れですが、似た趣向の描写だと思いました。
共通するのは「その場の勢い」です。

個人的には「放映版と違って、映画版のもち蔵はキリッとしている、男らしい」などとはあまり思っていなくて(まあ、映画のほうがシリアスな表情をみせていますが)、放映版と同じように「たまこに何かしなければいけない」と思うと、プレッシャーに押されてなかなか踏み出せないところが依然として見られます。その弱さを、自分の勇気で克服して乗り越えるだけではなく、その場その場の「勢い」で行動していくところが若さというか何というか。
また、もち蔵の「告白」を結果的に促す形になったみどりの発言も、みどりに促されたもち蔵の挙動も同じように、事前に考えていたものではなく「勢い」で出たものでしたね。若さは勢い。

たまこにお尻を触られるみどり

映画では「お尻餅」考案中のたまこからお尻を触られて赤面、動揺するみどりのシーンがあります。
2話の中に、教室でたまこに髪を触られて「はぁっ?」「何よ?」と慌てる描写が出てきました。このくだりは映画版と共通するところであり、みどりがたまこに友達以上の特別な感情を持っているゆえの動揺をさりげなく捉えている箇所だと思います。たまこに身体を触れられることは、みどりにとって(もしかすると、性的な意味合いを含んだ)心のざわつきを覚えるものかも知れませんが、そのことについて踏み込んだ描写はなく、みどり自身も多くを語りません。

みどりの話からちょっと逸れますが、映画では(デラの登場する短編ストーリーも含めて)おっぱいやお尻など、いくぶん性的なニュアンスを含んだ単語・モチーフが出てきました。それらが「性的」であると見るのは、劇中人物および鑑賞者の勘違いを狙ったユーモラスな演出によるものと考えられるかも知れません。しかし、みどりのお尻はどうなのでしょうか。そこに性的な意味合いの介在する余地がまったくないと言えるのでしょうか。軽く笑って流せばいい場面なのかも知れませんが、引っかかろうと思えばいくらでも引っかかれるところでもあります。

アオリアングルと空

前エントリでも少し触れましたが、たまこが不安や動揺を隠せない場面では、たまこを下から見上げるアオリのアングルがしばしば使われています。アオリアングルを取り入れる描写には「被写体人物を尊大に見せる」などの演出意図もあるようですが、本作では全然違った意図ですね。
12話を見てみると、商店街アーケードから飛び去る鳥をたまこが見送る場面でアオリが使われていました。これはデラがいなくなることによる不安を示す場面であり、たまこを下から見上げることで、心にぽっかり空いたような空を見せるわけです。11話に見られる夜の星空ではありませんが、空を広く見せることによって、寄る辺のない不安を表現してみせる趣向だろうと感じました。

映画においては、もち蔵に告白されてから家に戻るたまこの場面、もち蔵にばったり出くわした風呂屋から飛び出てきたたまこの場面が印象的でした。しかし、作品後半(マーチングフェスティバル終了あたり)ではタンポポの綿帽子(種)が上空に舞い上がる場面でアオリアングルが見られました。これは不安とは正反対の、将来の希望などポジティブなニュアンスの感じられるところですね。

レコード店「星とピエロ」

たまこが来店した際のマスターの反応について興味深い対比が見られました。

  • 1話:今までかけていたレコードを止めて別の曲を再生する
  • 映画:レコードを止める気配はなく、ずっと同じ曲が再生されている。

1話では、マスターがたまこの「思い出の曲探し」を手伝っているという背景があり、それが後の9話エピソードで解決した経緯を考えれば、それほど引っかかる場面ではないのですが、マスターがレコードを代えなかった理由は、それだけではないのです。
前に『たまこまーけっと』の劇中曲について書きましたが*1「星とピエロ」でよく流れているレコードはプログレッシブ・ロックです。およそ、たまこたちの世代にウケるタイプの音楽ではありません。
レコード以外にも「牛乳パック」が1話と映画の対比的な描写モチーフになっていますね。

  • 1話:コーヒーが苦いというたまこに、マスターが牛乳パックを差し出す
  • 映画:1話と同様に牛乳パックを差し出すものの、途中で引っ込めようとする

牛乳を入れないコーヒーとプログレッシブ・ロック、どちらも子供には取っ付きにくい大人の味わい、劇中では同じ意味合いなんです*2。マスターは「いつまでも、たまこを子供扱いするのは良くないかもな」とか、そういう思いがあって、態度を変えてみたのだと思います。

映画の後半、もち蔵がひとりで来店した際にはレコードを替えていますが、それは単に再生していた曲が終わったからです。また、店内に流れていた曲が、もち蔵が店を出てからの場面においても劇伴としてそのまま流されるところは、みどりの登場する2話のシークエンスと似た演出ですね。映画の中で流れてくる曲は、2話のフレンチポップス風とは違い、歪んだギターコードのサウンドが印象的なシューゲイザー風の曲調でしたが、言葉にならない人物の気持ちを音楽や情景に託しているようで印象的でした。

母親のこと

映画版の豆大の台詞によると、たまこは母親・ひなこの死後、ずっと休まずに店の手伝いをしていました。
母親が亡くなってから、自分を母親のポジションに置くことで自分の中にポッカリ空いた部分を埋めようとする心の働き(それは無意識なものだったと思います)は確実にあったことでしょう。このことは、たまこが母親と同じように、妹・あんこに対する呼称として「あんこ姫」を使っていた放映版の描写(2話、4話を参照ください)にもすでに見られました。

映画では、母親からたまこへの呼称として「たまこ姫」が出てきましたし、呼称のほか、母親が両手でたまこの頬を挟んでなでる仕草も放映版との対比として重要なポイントでしたね。
さて、映画でたまこの回想シーンを取り入れたのは何故だったのでしょうか。
上述の点からいろいろ考えてみたところ、

  • 今まで自分を母親のポジションに置くことで見えていなかった母親の姿をたまこに再認識させること
  • 自分と母親は別なんだという気付かせること

そんな制作上の意図があるように感じられます。
飛び石を渡る途中、たまこがもち蔵に声をかけられて思わず小石を川に落とす場面が非常に印象的でした。
映画に登場する小石は、たまこの回想からわかるように、母親を象徴するモチーフです。それを(不可抗力ではあるものの)たまこが手放してしまうのは、自分と母親の分離、一般的な意味合いとはいささか趣の異なるものの、たまこにとっての「親離れ」を表しているように見えました。

主題歌と糸電話

主題歌『恋の歌』に出てくる「この歌は、あなただけに聴いてほしい」という歌詞パートを聞いて、ふと山田尚子監督の前作『けいおん!』シリーズ、その中に登場する楽曲「天使にふれたよ!」のことを思い出しました。
それは、劇中曲を「誰から誰に宛てた」という形で、作品の中にしっかり位置づけているところが似ているなあと感じたからでしょう。『けいおん!』シリーズの『天使にふれたよ!』が卒業生から後輩に宛てて作られたように、豆大は不特定のファンやリスナー向けではなく、ひなこというただひとりの人物に宛てて歌を書いたわけです。ものすごくプライベートな性格を持った歌なんだということが感じられます。

しかし、映画における歌の役割は、それだけではないと思います。重要な劇中モチーフである糸電話とのリンクです。
映画のラストで、たまこが「もち蔵、大好き!」を糸電話で伝える行為、もち蔵だけに聞こえるように自分の言葉を伝える行為は、まさに歌詞の「あなただけに聴いてほしい」を劇中人物に体現させたものではないでしょうか。ラストシーンに続いて、エンディングにたまこ役の洲崎綾バージョンの『こいのうた』を使っているのは(いささかダメ押しのようでもありますが)作品のポリシーを明確に伝えようとする意図によるものでしょう。
たまこともち蔵が糸電話を使い始めた経緯については12話で語られているものの、高校生になってもまだ使い続けているのは、幼少期の面影を引きずっているような、やや子どもじみた行為に見えなくもありません。
しかし、主題歌の内容とリンクさせ、たまこがラストに持ち出してくることで、先に述べたバトンや紙コップと同じように、糸電話もまた、既存のモチーフを物語の流れに沿う形で捉え直されたのが見えてきました。

音楽のこと

従来の放映版で使われた音楽を新しくアレンジした箇所がいくつかありました。市販サウンドトラックの曲名で言うと「たのしいたまこ」「とーちゃんのおもち」「学校とスクールガール」など。
それら既発のサウンドトラック曲とは別に、映画で初めて使われている曲は、だいぶシリアスな印象のものが多かったです。中でも、もち蔵に告白されてからたまこが変調をきたしている場面で使われるスローテンポで三拍子のピアノ曲、自分では勝手に「エリック・サティ風」と呼んでいますが、穏やかながらどこか物憂げで、初回鑑賞時に感じた重たいものの正体はたぶんこの音楽なんだろうと思います。途中で音楽のないパートを挟んで再び曲が流れてくる趣向も、なかなか調子の回復しないたまこの描写と相まってじわじわと効いていますね。

サティ『嫌らしい気取り屋の3つの高雅なワルツ(3 Valses du precieux degoute)』から、2曲目の「彼の眼鏡(Son binocle)」。サティの三拍子曲といえばジムノペディが有名ですが、『たまこラブストーリー』の劇伴とはちょっと雰囲気が違うような気もします。
たまこがもち蔵に告白されて動揺する場面に使われているストリングスやアコーディオン主体の曲は、Yann Tiersenの雰囲気に似ているかもしれません。

Yann Tiersenといえば映画『アメリ』の音楽で有名ですが、もうずいぶん前に見たきりなので。もしかしたら『たまこラブストーリー』との共通する何かがあるのかと思いつつも、確証のあることは言えません(ごめんなさい)。

*1:http://d.hatena.ne.jp/beaux25/20130314/1363268504

*2:大人にとってもプログレはとっつきにくいよ!と言われるかも知れませんが、あくまで劇中設定の話なのでご容赦ください。

『たまこラブストーリー』鑑賞雑記

はじめに

昨年1〜3月にTV放映された『たまこまーけっと』(以下、放映版)は、独特のほんわかしたムードと細部にこだわった描写が好印象の作品でした。好印象ではありましたが「この物語は全12話でしっかり終わった」と感じていたので、映画が作られるという話を聞いたとき、そのタイトルが『たまこラブストーリー』と聞いたときは、ちょっと不安のような感情を持ちました。
そして、初回の鑑賞時は少々違和感を覚えましたし、作品の流れ、中盤で主人公たまこが変調をきたすあたりから予想以上に重たいものを感じてしまいました。
とはいえ、作品のテーマ性は明快で分かりやすく、再見してみると(話の筋をあらかじめ知っているという利点もあるため)割と心地よく鑑賞することができました。また、放映版と同じく、いやそれ以上に細かい描写や演出に凝っているのが見えてきました。
今回書くのは、2回の鑑賞で見えてきたこと、気になったことの列挙です。総合的な作品評にはなっていません。
鑑賞直後に覚えていることを走り書きして、それをもとに書いていますので、多少誤認識があるかも知れませんがご容赦ください(また、ネタバレを遠慮せず書いたので、未見の方はご注意願います)。

作った人の顔が見える音楽・映像

たまこラブストーリー』では、オープニング・劇中・エンディングに渡って『こいのうた』がバージョン違いで3回も登場します。
まあ、作品タイトルが『たまこラブストーリー』ですし、親世代のエピソード*1も重要であることを考えれば何とか納得できるのですが、初回鑑賞時はちょっと違和感を覚えました。
しかし、山田監督の前作『けいおん!』シリーズを思い返してみると、物語の中で「誰が、誰に宛てて作ったのか」が見えてくる楽曲、そうしたものを作品内で積極的に使いたい意向が、今回の『たまこラブストーリー』においても強かったんだろうな、という風に考えることもできます。
本作は『けいおん!』のように音楽をやっているキャラクターがメインの話でないので、劇中人物による楽曲をバンバン使うわけにはいきませんが、放映版BDの付属CDに見られる、レコード店『星とピエロ』のマスターが流している楽曲にいちいち架空ミュージシャンを設定をこしらえる趣向などは「ほんの少しの隙間にも物語性を入れたい!」という意志が働いているように思えるのですがどうでしょうか。
映画の話に戻すと、豆大の『こいのうた』に対して、ひなこの拙いアンサーソングを配置する趣向を見れば、手作り感というか「作った人の顔が見える」というのを大事にしているのが感じられました(劇中人物が関わる設定を盛り込むことでドラマ性が生まれる面もあると思います)。
また、映画のエンディングでは、もち蔵たち映画研究会が作ったであろうストップモーションの映像が出てきますが、これも同様の意図でしょうね(確か『けいおん!!』の後半OP映像も、素人がビデオカメラを回して撮ったという想定のものだったと記憶しています)。

既成曲『上を向いて歩こう』を使った意図は?

第1コーラスの歌詞を以下に引用します。

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日
ひとりぼっちの夜

はっきりした意図は分かりませんが、歌詞に何らかの意味を持たせたかったのだろうと思います。
歌詞が物語にマッチしてたからか、あるいは劇中で人物がほとんど泣かないことと何か関係があるのかも知れません。劇中ではインストゥルメンタルのアレンジで流されていますが、歌詞を知っている人にそっと伝わればいいという、一種のほのめかしでしょうか。

放映版の描写との関連性

映画、放映版それぞれの描写で関連がありそうなものを書いてみました(以下「〜話」とあるのは全て放映版の放送順です)。

ジャンプカット

もち蔵が自室のベッドに身を投げ出すあたりの演出。みどりの出てくる10話シークエンスにも類似のジャンプカットがありました。5話ではデラの「同じ匂いがする」発言がありましたが、似た傾向をもつキャラクターとして位置づけたかったのでしょうか。

コンタクトレンズ

たまこが川に落ちた直後に見える輪郭のはっきりしない映像演出。
コンタクトレンズといえば、放映版ED曲『ねぐせ』の歌詞に

コンタクトを外してみた
世界がぼやけて
一瞬だけど居場所を確認しちゃうよ
いつか離れていくのかな

という箇所があります。
映画の中で「ぼやけて」いたのは、たまこの視界であり、
「いつか離れていく」というのは、もち蔵の暗示か。
そのようにも感じられます。

スキップ

いくぶん気分が晴れやかになった時点で、たまこの見せるスキップ。
これは放映版OPと同じモーションですね。あのOPに見える彼女は天真爛漫そのものだったのですが、映画版ではスキップの途中で再び不安と動揺に襲われてしまいます。そのギャップを見せる演出としてのスキップはなかなか効果的でした。

星空

風呂屋の帰り、たまこを包む星空のカットがありました。これは11話、みどり・かんな・史織の3人が星空を見上げる場面を想起するところです。11話では、かんなの「宇宙のに立ったみたいな気分なんですよ、動揺してる」という台詞がありましたけれど、空、とくに夜の星空というのは、この作品では「まだ見ぬ世界への不安」を表しているようです。
別の場面では『映画けいおん!』と同様の飛行機雲や飛行機の出てく短いカットがありましたが、これは希望や期待といった別のニュアンスで見ることができるでしょうか。

朝の商店街

スランプ気味のたまこが早朝の商店街を歩いてみるくだり。11話の終盤では失くしたメダルを探して寝間着のままうろつく場面がありました。普段のたまこは家の手伝いがあるから、早朝からのんびりと屋外を歩くことはまずないのでしょう。たまこの見せる「非日常」に対して、商店街で開店準備をしている人々は「いつもどおり」。このギャップは部活の描写にも見ることができます。恋煩いでなくても、精神的に落ち込んでいるときなどは、自分は調子悪いのになんで周囲の人は普通に動きまわっているのだろうという気分になりますし、そんなことを考えさせる場面でした。

史織の発言

告白してきたもち蔵に何と返答すればいいのか悩むたまこと、相談に乗る友人たちのくだりで史織が「うれしかった、だけでもいいんじゃないかな」と返します(台詞はうろ覚えです、間違っていたらすみません)。これは3話で史織からたまこに言う「すごくすごく楽しかったの!」との関連を感じるところです。史織が抱いていたのは恋愛感情とは別物でしたが、自分の気持ちをシンプルでもいいからストレートに伝えるべきだ、というのが、自分の経験から出てきたのかな、と思いました。

たまこの不安

たまこの性格について言いますと、融通が効かないわけではないけれど、生まれてからずっと(商店街の人々や友人に支えられながら)継続する日常生活の心地よさを十二分に味わってきたために、ちょっとした周辺の変化に対して脆く、不安や動揺を覚える子のようです。母親の死によって生じた商店街の静けさが、たまこにとってはトラウマであり、同じような状況を目にするとフラッシュバックを起こすリスクを抱えています。

この作品では「不安」は「非日常」と表裏一体の関係です。6話、11話、12話に見られるたまこの描写は、映画版の前触れといったら語弊がありますけれど、映画ではTV放映版でほのめかしていた不安がよりシリアスな問題として表面化したように思えます。いつもと違う(非日常の)もち蔵の挙動を見てしまったことで精神的な動揺を覚えるたまこの描写がそれを指し示しています。

たまこがいかにして自身の不安状態を脱することができたのか・・・という話はまた別の機会にしようと思いますが、たまこだけでなく、みどりやもち蔵も放映版エピソードで少しずつ不安を見せていましたし、映画版になって急にシリアスな色合いが出てきたのではなく、以前からその前兆、ほのめかしはあったのだと思います。

おわりに

また、時間に余裕ができたら、別エントリーを書くかも知れません。

*1:『こいのうた』は豆大(たまこの父親)が、ひなこ(たまこの母親)に告白する形で作詞したという設定がある。

プログレッシブ・ロック、カンタベリー系の音楽について

プログレあるいはカンタベリー

今年(2013年)の1〜3月に放映されていた『たまこまーけっと』の劇中に使われていたプログレッシブ・ロック風の楽曲について以前にエントリ*1を書きましたが、それに関連して今年になってからプログレッシブ・ロック、特にカンタベリー系と言われる音楽に興味を覚えて(Twitterフォロー先の方からも情報をいただいて)いろいろと古いアルバムを中心に買ってみました。今回は、今年になって出会ったプログレ系の音楽について自分の感想や印象を書いてみようと思います。

Soft Machine

1960年代末から80年代初頭にかけて活動した、カンタベリー系の中では最重要のバンドです(これはウィキペディア記述の受け売り)。

3(紙ジャケット仕様)

3(紙ジャケット仕様)

以前のエントリでも少し触れましたが、3枚目のアルバム”Third”はいろんな意味ですごい作品だなあと、実際にアルバムを通して聞いてみて感じました。
1曲目の”Facelift”は不可思議な和音に続いて「ごごごごー!ぎょいーん!ぴー!」と何か機械の壊れたような音で幕を開けますが、これはオルガンの音らしいです。このバンドには基本的にギタリストがいないのですが、その代わりにキーボード担当のマイク・ラトリッジが歪んだサウンドのオルガンをまるでエレキギターのソロのように弾きまくります(曲によってはヒュー・ホッパーもファズをかけて歪ませた歯ぎしりのようなインパクトのあるベースを聞かせてくれます)。
前に「比較的ゆったりした」と形容していましたが、まあそういう曲もあるものの、演奏は総じてけたたましく、曲調は頻繁に変化を見せ、非常にスリリングな印象です。
”Third”では 1曲が20分を超える長いものもあり、ラトリッジのほか管楽器プレイヤーによる即興パートもふんだんに盛り込まれているのでジャズ的と言えるでしょう。しかし、”Facelift”においては曲の中で複数のモチーフ(ロックでいうリフレイン?)を少しずつ変えながら使いまわしているところもあり、そのあたりはクラシック曲でいう「主題」の変奏のようにも感じられます。

当時のライブ映像での"Facelift"(ブログへの埋め込みが無効化されたので、上記リンクで閲覧願います)。前奏部分もさることながら、各プレイヤーの紡ぎ出すフレーズが第一主題として実を結ぶまでの長いこと長いこと。客席ではヘッドバンギングをしたり恍惚の表情で聞き入っている若い人も見えます。
Soft Machineは、アルバムごとにバンドメンバーが入れ替わるため、それにつれて曲のテイストも変わっていったようです。”Third”に続く”Fourth”と”Fifth"ではロバート・ワイアットの歌う曲がなくなってジャズの色が濃くなり、”Sixth”以降はジャズというかフュージョン寄りのサウンドに変化、さらにギタリストのアラン・ホールズワースが参加した”Bundles”では完全にフュージョンの音色、”Third”時代に在籍したメンバーはマイク・ラトリッジしか残っていないこともあって、9曲目の”The Man Who Waved at Trains”などを除けば、とても同じバンドとは思えない変化ぶりですね。
1枚目と2枚目は買ってからあまり聞いていないのですが、1枚目の"So boot if at all”は後にカヒミ・カリィの”Good Morning World”に借用されていることを知りました。
ファーストから”Bundles”までSoft Machineのアルバムを揃えてみましたが、ぼくにとっては、第一印象の強さから”Third”が一番しっくりきました。BBCでのセッションを収録した2枚組の”The Peel Sessions”も好印象でした(現在は中古扱いのようです)。

Caravan

Soft Machineと同じくWild Flowersというバンドの在籍メンバーが元になったバンドですが、叙情的と言いますか、何と言いますか、サウンドから受ける印象はだいぶ違うと思います。
ぼくが気に入ったのは2枚目”If I Could Do It All Over Again, I'd Do It All Over You"ですね。

If I Could Do It All Over Again I'd Do It All Over

If I Could Do It All Over Again I'd Do It All Over

とくに7曲目(7トラック目と言うべきか?)の"Can't Be Long Now / Francoise / For Richard / Warlock”に惹かれました。14分の大作で、最初はギター伴奏とボーカルの静かで物憂げなパートで始まるのですが、途中3分40秒あたりからオルガンが「がっ、がっ、ががーっ!」と鋭いリフで斬りこんでくると一気にロックなテイストへと変化します。オルガンリフの前触れの如きドラムロールが聞こえてくると「おお、来たか!」と声を上げたくなるほどゾクゾクしますね。
2〜3枚目のアルバムでは、 ロックっぽい雰囲気はあってもギターがあまり目立たないのが特徴的です。ギター担当のパイ・ヘイスティングスがコードストロークなどのバッキングに徹しているせいでしょうけれど、4枚目からフィル・ミラーのリードギターが加わるとまた色合いが少し変わってきます。
3枚目の”In the Land of Gray and Pink”もいいですね。
In the Land of Grey and Pink

In the Land of Grey and Pink

いや、初めて聞いたときは何だかモヤッとした感じであんまりインパクトがなかったのですが、何度か聞いているうちにだんだん馴染んできました。このアルバムでは意外とベースの存在感があって、リチャード・シンクレアの骨太かつグルーヴ感のあるベースラインが心地よいので20分を超える終盤の”Nine Feet Underground”も飽きずに聞くことができるんだと思います。

Camel

このバンドも1970年代を中心に活動していました、というか今でも活動していますが、オリジナルメンバーはギタリストのアンドリュー・ラティマーしか残っておらず、80年代以降はバンドというより彼のソロ・プロジェクトに近い活動形態かもしれません。
初めに聞いたのが3枚目、全曲インストゥルメンタルの"The Snow Goose”。フルートのフレーズが美しい”Rhayader”に惹かれました。

Snow Goose (w/ bonus track)

Snow Goose (w/ bonus track)

4枚目の”Moonmadness”もいいですね。
Moonmadness

Moonmadness

Camelは、曲調の変化や変拍子のリズムパターン(さりげなく8分の7拍子が混じっていたりします)などプログレ的な特徴を備えているものの、曲の随所にキャッチーなメロディが置かれていて、全体として聞きやすいポップさがあると思います。
雨のシルエット+7(紙ジャケット仕様)

雨のシルエット+7(紙ジャケット仕様)

A Live Record (w/ bonus track)

A Live Record (w/ bonus track)

5枚目の”Rain Dances"ではメル・コリンズ(サックス、フルートなど、元King Crimson)とリチャード・シンクレア(元Caravan)が参加して、ポップさと共にフュージョンテイストが出てきています。彼らが加入してからのライブを収めた”A Live Record”では"Never Let Go"などの古い曲も演奏していますが、新メンバーの味わいも付加されているのでなかなかこれはこれで良いと思います。

上記映像は”A Live Record”と別の演奏ですが、“Rhayader"ではメル・コリンズもフルートで参加、ピーター・バーデンスのキーボードソロではバックでタンバリンも担当しています(楽しそうに叩いているのが微笑ましいです)。

”Moonmadness”収録の”Lunar Sea”では、曲後半でギターとサックスの掛け合い演奏が披露されています。
また、最近になって"The Snow Goose”のセルフリメイク盤もリリースされていますね*2

Hatfield and the North

ザ・ロッターズ・クラブ(紙ジャケット仕様)

ザ・ロッターズ・クラブ(紙ジャケット仕様)

2枚目のアルバム"The Rotter's Club"しか聞けていませんが、このバンドにもリチャード・シンクレアがベースとボーカルで参加しています。また、フィル・ミラーのギターが目立っていてフュージョン色の濃い作品です。

National Health

Of Queues & Cures

Of Queues & Cures

これも2枚目の"Of Queues And Cures"しか聞いていませんが、参加メンバーでは、上に書いた"The Rotter's Club"とギター、ドラム、キーボード、フルートの各プレイヤーが重複している(アルバムのリリース時期はずれていますが)ので、やはりフュージョンっぽい印象でした。
若干現代音楽的な不協和音もあってとっつきにくい部分もありますが、5曲目”Binoculars”は10分を超える長いナンバーでありながら、緩急の入り混じった曲変化があって楽しめます。この曲も途中のフルートがいい味を出していますね。

McDonald and Giles

King Crimsonを脱退したイアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズによるユニット。アルバムは同名タイトルのものが1枚出ているのみですが、これがまた素敵な作品でした。

Mcdonald & Giles [HDCD]

Mcdonald & Giles [HDCD]

お気に入りを挙げるとすれば、冒頭の”Suite In C"でしょうか。このナンバーも曲調の変化が楽しめます(こんなことばかり書いてますが)。中間部のテンポアップする箇所が、どことなくあの”21st Century Schizoid Man”を彷彿させるところでもありますが、全体的にはアヴァンギャルドな印象ではなく穏やかで、最後はドゥーワップのような雰囲気で幕引きとなります。
アルバムを通して歪んだエレキギターの音色が聞こえてこないのも要因のひとつですが、他の曲もクリムゾンの激しさや緊張感とは違ってゆったりとしています。個人的には"I Talk To The Wind”的なものを感じました。まあ、クリムゾンも嫌いじゃないですが、緊張感や重苦しさを抜きにして、曲調変化の面白さやアンサンブルの妙という部分でのプログレ的美味しさを求めるとすれば、このアルバムがほぼ目的に適ったシロモノではなかろうか、そんな風にも思えます。

21st Century Schizoid Bandの演奏から、”Tomorrow’s People”。マイケル・ジャイルズの弟・ピーターもベースで参加しています。曲の中盤ではイアン・マクドナルドとメル・コリンズによるフルートの掛け合いが出てきます。

その他雑感

たまこまーけっと』関係だと、"The return of the giant hogweed”が収録されている"Nursery Cryme”など、ピーター・ガブリエル在籍時のGenesisもアルバムを3枚ばかり聞いてみましたが、個人的にはちょっと合わないかなあ。いや、曲構成はとても美しいのですが、どこか近寄りがたいものを感じるというか。
その一方で、ELPの”Brain Salad Surgery”などは最近になって意外とかっこよく感じたりするので(大学生の頃に初めて聞いた時は全然受け付けませんでした)、自分の中でもプログレッシブ・ロックという音楽ジャンルに何を求めているのか、よく分からない部分もあります。
自分はプログレに何を求めるのか・・・強いて言えば、一般受けするポップスやロックにない「サムシング・エルス」というより他にないのですが、そうだとするのなら、求める先はプログレに限定する必要は全くないので、クラシックでも民族音楽でもエレクトロニカでも何でもよいというのも事実であります。
とはいえ、プログレあるいはカンタベリー系というジャンルの中に何かしら面白いものは確かにあるという手応えを感じたのが今年の収穫でありました。他にも書きたい音楽のことがありましたがそれはまた別の機会に。来年以降ももう少しこの辺りを個人的に散策してみようかと思っています。

追記(2013/12/31)

Soft MachineとCaravanとでは「サウンドから受ける印象はだいぶ違う」と書きましたが、全くつながりがないのかと言えば決してそうではないことをご指摘いただきましたので、加筆しておきます。

@la_banane_92 興味深く拝読しました。少し気になったのですが、Caravanのアルバム"For Girls Who Grow Plump In The Night"は聴かれましたか?(続)
http://twitter.com/los_endos_/status/417660329326161920

@la_banane_92 と言いますのも7曲目の組曲"Backwards"を聴けば、Soft Machineの3rd"Slightly All The Time"の後半部との思わぬ接点に気付かされ、次の瞬間には大きな感動を味わえるはずだからです。既にご存知だったらすみませんw
http://twitter.com/los_endos_/status/417660589360439296
@la_banane_92 あ、さっきのtweetと後先逆になりましたね、スミマセンw 浮遊感のあるSoft Machineのあの曲が、Caravanのバージョンではオーケストラを使った雄大なスケールに仕上がっていて、何度聴いても胸に迫るものがありますねぇ…。
http://twitter.com/los_endos_/status/417682315460898816

Soft Machine"Third"収録の"Slightly All The Time"および、Caravan"For Girls Who Grow Plump In The Night”収録の7曲目(タイトルが長いので省略します)に共通する"Backwards"というパートについては、"Third"のライナーノーツにもしっかり言及されていました。

Of the entire studio based recordings, Mike Ratledge's "Slightly All the Time" comprised parts of Hugh Hopper's "Noisette" and featured the playing of Jimmy Hastings (elder brother of Caravan's Pye Hastings) on flute and bass clarinet. The composition finished with marvellous "Backwards" movement, a melody later utilised to great effect in 1973 by Caravan as part of their "L'Auberge du Sanglier" suite on the album "For Girls Who Grow Plump in the Night".
Soft Machine"Third"の英文ライナーノーツより引用

For Girls Who Grow Plump in Night

For Girls Who Grow Plump in Night

東京方面の散策(2013年9月・新宿御苑)

前回の続き。東京の旧前田侯爵邸を訪れたあと新宿に向かいました。
映画『言の葉の庭』の聖地巡礼的な散策目的です。

大雨

新宿御苑を見て回ったのは関東地方滞在の最終日。その日は朝から大雨でした。というのは、折しも台風18号マンニィが接近していたためで、宿泊ホテルの窓から外を眺めつつ「こりゃあまずいな」。新幹線が新横浜〜小田原間で運転中止とのニュースも入ってきて、もしかしたら京都には今日中に帰れないかもとの不安もよぎりました*1

開園前の新宿御苑・新宿門前。叩きつけるような雨だったのが分かるでしょうか。

四阿(あずまや)


言の葉の庭』ではメインの2人が語らうこの四阿が最重要スポットなのですが、もともと方向音痴なので別の四阿と勘違いして30分ほどウロウロしたあげく、やっとたどり着きました。
四阿の中央には、作品に出てこない灰皿が設置されていました。劇中のユキノ先生は飲酒癖を持っているものの喫煙者ではないので(たぶん)背景描写の上で単に目障りだから省いたのでしょうか。あるいは、喫煙よりも飲酒のほうが(新宿御苑的には)アウトな行為であり、とある理由で仕事を休み続けているヒロインの人物造形上しっくりくるという観点から、あえて飲酒の描写が盛り込まれ、その過程で実際の灰皿は不要なアイテムとして省略された。そのようにも考えられます。
まあ、ここで俄の考察をしても詮無いのでこの辺で止めておきますが。

四阿の中からの眺め。

四阿の近くにある小さな橋。劇中のカットはこんな感じだったでしょうか。
前述のとおり、9月に訪れた際は予想外の大雨に見舞われ、足元の悪い中で傘を差しながらの撮影というバッドコンディションではありましたが、くだんの映画においても終盤、9月のシークエンスでは突然の強い通り雨に遭った2人が四阿に駆け込む様子が描かれていましたので、こういう悪条件での御苑訪問だったのも意外とラッキーな追体験(?)だったのではないかな、これがカンカン照りの天候だったらもっとつまらないものになっていたかも知れないなと、今になって思い直したりしています。

その他


劇中に少し出てきた旧御涼亭。

千駄ヶ谷門に向かう道すがら。劇中で見た池にかかる橋はこの辺りだったでしょうか(当てずっぽうで撮影していました)。後ろに見えるのはNTTドコモ代々木ビルです。とにかくこのビルはデカイ。デカ過ぎて御苑敷地内では何処からでも目立つ存在であり、場所によっては威圧感すら覚えるほどでしたが、映画の中でも印象的な建物として登場していました。

カエデの背景に隠れてもらいましたの図(笑)。

劇中カットを参考に


雨天の甲州街道

JR中央線・千葉行き車両からの撮影。ほんの一瞬でしたが劇中ではとても印象的な箇所でした。

千駄ヶ谷駅から新宿御苑を向かう道すがら、中央本線の高架を振り返るの図。劇中カットでは、車両が手前の消火栓看板(赤くて丸いやつ)にちょうど重なるようになっており、そのアングルを再現するためにはずっとずっと後ろに下がって、かなりの望遠レンズで撮らなければならないようです(ということを、ずいぶん後になってから気付きました)。

御礼

新宿御苑訪問および周辺地区散策にあたっては、以下のサイトを参考にさせていただきました。

どうもありがとうございました。

*1:結果的に雨は小振りになって新幹線も運行再開したので無事京都に戻ることはできました。ただ、帰宅翌日未明から朝にかけての台風による雨で京都各地が被害に見舞われましたが、それはまた別の話。

鎌倉方面の散策03(2013年9月)

前回の続きです。

鎌倉文学館

江ノ電由比ヶ浜駅から徒歩7分。『青い花』では藤ヶ谷女学院のモデルになっていました。

受付場所に至る道のり。藤ヶ谷といえば登校シーンに見える木洩れ日の描写が印象に残っています。写真だけ見ると、涼しげに感じるかも知れませんが、まだまだ暑い9月中旬、汗だくで坂を登っていました(しかし、晴れていて良かった)。

校門は受付場所を借りて描かれていますね。

受付を過ぎたところにある石造りのアーチ・招鶴洞。受付から招鶴洞に至る道は、まっすぐではなくカーブしていました。

文学館本館。青い瓦屋根とバルコニーの木製手摺りが印象的。館内は撮影禁止です。

本館を正面から見たところ。
ところで、この鎌倉文学館は『青い花』のほか『TARI TARI』でもウィーンの家のモデルとして登場していました(8話)。旅行から戻った後に調べてみたところ、文学館はもともと前田侯爵家別邸だったとのことです*1。そして、ウィーンの本名は前田敦博ですし「前田つながりか!」というわけで「ちゃんと登場人物の名前と建物の由来を関連付けて作品設定を考えていたんだなあ」と少し感心してしまいました。

おまけ・旧前田侯爵家邸(東京)

前田侯爵家邸は東京にもあり、ここも『青い花』の舞台モデルになっています(洋館が藤ヶ谷女学院、和館が杉本家)。この際ついでに行って見てしまおうと東京に向かいました。最寄り駅は京王井の頭線駒場東大前駅東京大学キャンパスの隣に位置しています。
東京の前田侯爵家邸は東京都の管轄になっているようです*2。洋館・和館ともに入場無料、館内撮影も可能でした(商業撮影を除く)。

洋館の外観。

あーちゃんがシスターに叱られる階段の近く。

青い花』とは関係ありませんが、薄暗い部屋に外からの光が入ってくる情景が好きなので一枚。ちなみに、洋館は『華麗なる一族』や『のだめカンタービレ』などドラマのロケにも多く利用されているそうです*3

和館の外観。

青い花』7話、杉本家の一同が集まる居間の場面で、後ろの違い棚が描かれていました。上下にある戸棚の位置もそのまま使われていたようです。

縁側から石灯籠も見えます(アニメでは、池の向こう側ではなく手前に描かれていました)。

鎌倉方面の散策02(2013年9月)

引き続き『青い花』のことなど。

江ノ島弁天橋


片瀬海岸と江ノ島を結ぶ歩道橋・弁天橋。10話に出てきましたが、床の舗装タイルデザインは省かれていたようです。この弁天橋は、江ノ島が主要な舞台である作品『TARI TARI』にも描かれていました。

江ノ島・展望台


展望台は、島の中ほどにあるサムエル・コッキング苑という植物園エリアに立っています。
江ノ島に点在する辺津宮、中津宮、奥津宮、竜宮などの江島神社各施設、さらにその奥にある岩屋を含めてしっかり見て回るとすれば間違いなく一日仕事になってしまうので、それは最初から断念。そうでなくても島内歩きにおいては出来る限り時間とエネルギー節約を考えて登りルートにエスカー(エスカレーター)を使うなど考えていたのですが、道中でうっかりこの展望台をスルーして岩屋のほうまで歩いたところで気付き、再び戻ってまた再び岩屋へ向かうという時間とエネルギーの浪費をやってしまいました。

炎天下の中を歩いていたので一休みと昼食を兼ねて、サムエル・コッキング苑内のカフェ「LONCAFE」にフレンチトーストとアイスティーなど。

江ノ島・岩屋


アニメ10話に描かれた岩屋入り口は、第一・第二に分かれている岩屋エリアのうち「第二岩屋」の辺りですね。

岩屋の中では、しゃもじのようなものに取り付けたろうそくの火を頼りに歩くようになっていますが、総じて暗いです。奥の方へ行くに連れて天井が低くなっているので、大して身長の高くない私でも何かの拍子に頭をごちんとやりそうな気がして、おそるおそる歩いていました。あの状況で冷静に恋の話などできそうにもありません。

帰りは、島の中を通らず海路で一気に。

鎌倉高校前駅付近


ろくな写真じゃないですね(なんで江ノ電の通過瞬間を撮らなかったのか)。

左奥に江ノ島を収めた夕暮れのショット(できれば昼間に撮りたかった)。

11話にも、上の様な夕日を浴びる電車のシーンがあったなあと事後確認してみたところ、どうやらカメラを向ける方向が東西逆、つまり夕日ではなく朝日の出ている場面だったようです。これを撮るには(こと夏場は)早起きしなければならなさそうですが、また機会があれば訪れて挑戦してみたいところです。

鎌倉方面の散策01(2013年9月)

9月中旬の旅行から3ヶ月近く放置していたのですが、さすがに年を越すとそのままお蔵入りになりそうなので、いくつか気に入った写真を上げておきます。
今年の夏に入ってから、今まで見よう見ようと思いながらもずっと先延ばしにしていたアニメ版の『青い花』を鑑賞してみて、その舞台モデルとなった鎌倉その他を巡ってみたいなと俄ごころがむくむくと湧き上がってきました。とはいえ、根がものぐさな性格であり、しばしば脱線する傾向があるので、アニメ描写と実際の場所を精密に比較検討するたぐいの舞台探訪あるいは聖地巡礼的なことは全くできておりませんのであしからず。

JR北鎌倉駅付近


第1話の後半、あーちゃんの通学シーンに出てくる踏切。北鎌倉駅といえば、同じく第1話の前半部分に描かれている岩のトンネルの写真を掲載したいところですが、すぐそばには「個人の所有地」云々の立て看板があり、ここで撮影というのはモラル的によろしくないのだろうと考えて断念。

JR鎌倉駅


これも通学シーンより。駅の東口から西口方面(江ノ電のりば)に抜ける通路。若干の勾配が影響しているのでしょうか、通路をくぐり抜けて別の景色に出会うという体験は新鮮な印象を与えてくれます。

駅東口からの眺め。駅舎の向かって左に見える時計とほぼ同じデザインの時計塔が駅西口にありますが(旧駅舎にあったものを移設したそうです)時計塔奥の喫煙スペースに常時人の出入りがあるので、なかなか思うような写真は撮れずじまい。

東口のロータリー。小町通りに入る手前の鳥居には「祝・電線類地中化完成」の横断幕が掲げられていました。ペコちゃん人形を挟んで手前のビル2階には東京方面での休憩でしばしば使っている「喫茶室ルノアール」。同ビル地下の蕎麦屋「川古江家」はなかなか美味しかったです。

江ノ電極楽寺駅付近


第1話と第4話に出てくる赤い欄干の映える橋と、その下をくぐり抜ける江ノ電車両。

駅から数分歩いたところにある成就院前から相模湾を眺めるアングル。第3話でふみちゃんを誘った杉本先輩によれば「紫陽花の咲く頃は人でいっぱいになる」そうですが、紫陽花の見頃はとっくに過ぎていたせいか周囲は静かでした。それはともかく、少し山手になっている場所から海岸への視界が広がっているのは、知らない人にとってはなかなかハッとさせられるところだと思います。

長谷寺


極楽寺駅から東の方向にある長谷寺境内の展望ルートにも、相模湾を見渡せるスポットがありました。

この長谷寺も紫陽花の名所とのこと、夏の終わりにもかかわらずかろうじて咲き残っているのを見つけました。

御霊神社


鳥居の手前を江ノ電が通り過ぎて行くところ。電車が近づくたびにカメラを持った人たちが鳥居付近にやってくるので、彼らの写り込みを避けようとすればかなりの時間と忍耐力を要します(そんなことを言っている自分が撮影の邪魔になっていたとしたら、誠にすみません)。ともあれ『青い花』への関心は措いても珍しいロケーション、立ち寄った誰もが一度は撮ってみたくなる構図ではないでしょうか。

ミルクホール


鎌倉駅東口から小町通り、左手の路地を入った所にある喫茶店(の看板、ろくな写真が撮れていません)。『青い花』では、あーちゃんたちがしばしば立ち寄るスポットでしたが、私が立ち寄った昼下がりに制服を着た女子高生の姿は見かけませんでした。

入店して通されたのは、アニメ版に出てくる広いフロアではなくその隣の、テーブルが1つしかない離れのようなスペースでした(一人客にとって周囲の会話が賑やかな場所では居心地が悪かろうという店員さんの心遣いだったかどうか)。周囲には食器や雑貨のたぐいが所狭しと並べてありました。店内のBGMは名曲喫茶的にクラシックかと思いきやモダンジャズ
店舗の公式サイトによれば1979年開業だそうで。→ミルクのメンバー