『輪るピングドラム』最終話を見ての雑感

Twitterに書き投げていたことの加筆訂正版。
とはいえメモ的な何かです。

ほんとうの雑感

  • 最終話見てた、泣けるねえ・・・
  • 劇中では、過去を回想する趣向が多用されているが「過去は現在にヒントを与えてくれるが明確な回答は与えてくれない、選択するのは自分自身」と考えていいのだろうか。
  • 過去に立ち返ることによって「そこに愛があった」と実感させる趣向が面白い。
  • 最終話の再見完了・・・うーん・・・運命と愛がキーワードってことでいいですよね。

運命

  • まず「運命」と言えば、作品前半で桃果の日記を手に痛々しく奔走していたりんごちゃんを思い出す(デスティニー!)。しかしその運命も「乗り換え」が可能だということは、死んだ姉・桃果によって提示されていたが明らかになり、りんごちゃんの行動パターンは変貌した。
  • りんごちゃんの信じていた「運命」は「死者による呪縛」だったとも言える。そしてあの日記を失うことによって、自分の手で行く先を切り開かなければならなくなったわけで「運命の乗り換え」は必然のものとなった。
  • まあ、冠葉についても高倉夫妻やサネトシ先生といった「死者からの呪縛」があって、そこからの自己解放が物語のキーになっていたと思う。
  • 他者に依存するにせよ、自分で選択するせよ、先の道を進むことにはリスクが伴う、作品ではこれを「罰」とどぎつい表現にしていたけど、ともあれどうせリスクを背負うのであれば後者の道を採った方が自分にとって納得できる「運命」となるのではないか、死者(でなくてもいいが、要するに自分以外)の定めた道に従うことを「運命」とするのは自己欺瞞ではないかと云々。
  • まあ、そこまで作品が具体的に言及しているわけではないけど・・・

  • 愛については、最終話で「ピングドラム」として提示されていた「片割れの林檎」がヒントになっていたと思う。とかく利他的、自己犠牲を厭わないスタンスで突っ走るキャラクターたちに提示するオルタナティブな「愛」の形。
  • 思い返せば、高倉兄弟、りんごちゃん、ナツメマサコさん・・・自分が行動を起こす際に利他的な愛、言い換えれば自己犠牲をものともしない姿勢をしめすキャラクターが多かった。
  • 他者への愛を「自己犠牲」として示すならば、それはえらく気高い精神のように感じられるが「他人を幸せにするための方法や手段は果たしてそれだけなのか?」という疑問が物語の終盤において提起されたのではないか、そして先に示したオルタナティブな答えの提示が最終話であった。
  • 自己犠牲を「誰かが利益を受けるならば、代わりに別の誰かが代償として不利益を被らなければいけない」と読み替えることも可能。しかし、それは死んだ者たちが囚われていた精神性でもあったのではないか。
  • さらに言うなら、いずれは「自己犠牲」の変種として「自分の信念を貫くためなら、誰かを殺してもかまわない、いやむしろ進んで積極的に殺すべきだ」というテロリズム肯定の思想が生まれる余地もあるのではないか。
  • もちろん、作品自体はそこまで突っ込んで言及していない。

まとめ

  • 結末には「まどかマギカ」と近い匂いも感じたけど、提示しているものは少し違っていたと思う。本作では「まどか〜」的な自己犠牲スタンスを完全否定していないものの、それに代わるものとして「シェア・共生」的な愛の形を示唆した。
  • とはいえ、傷つき苦しむ子供たちを助けてくれる大人たちはおらず、子供たちが自分で答えを見つけて道を切り開かなければならない、という道筋は共通しているけど。
  • 物語の結末は決してハッピーエンドではなかったが、バッドエンドでもなかった。もともと血縁のなかった他人同士が共生できる可能性は開かれていたと思う。素朴に「幸せだった過去への回帰」にしなかったのは良かったですね。