名前のない食堂

確かに名前のない食堂は存在した。その店はとくに目立って繁盛しておらず、簡素だが決してみすぼらしくない内装は私の好みだったので、昼食の選択肢としてしばしば使った。

しかし、その食堂は長続きしなかった。エスニックなランチメニューが一般受けしなかったせいか、常連のおやじさんにだけ特別のまかないメニューを出していたのが客にバレたせいか、はたまた店主の仕事意欲がフェードアウトしてしまったせいか、原因は分からない。

確かなのは、ある日食堂の前を通った時、すでにその場所が食堂であることをやめていたことだけだ。店先のドアに閉店通知の張り紙らしきものは一切なく、がらんとした元店舗の中身が目の前で剥き出しになっていた。
おそらくそれは、飼っていた猫がある朝急に姿を消したときの感慨に近いのではないだろうか。その猫が何処そこにいった、あるいは死んだ、というのはあくまで後付け説明でしかなく、姿を消したこと、それだけがとりあえずの、すくなくとも私にとっての事象すべてなのだ。
猫の話を引き合いに出すのはやめておこう。私自身、一度も飼ったことがないんだから。
名前のない食堂、それはどの家庭にでもある。しごくありふれた存在である。あらかじめ決まったメニューはなく、金銭のやりとりもなく、親しい者へ手料理をコンスタントに提供する食堂。そういう場にわざわざ名前をつける必然性がないことは自明の事実だろう。
あの「名前のない食堂」も、元々そういうプライベートな方向性を宿していて、本来の姿に忠実であろうとした結果がくだんの消失ではないのか、あれから十年近く経ってようやく理解に至った。