『四畳半神話大系』第10話を見た。

大学生「私」の複数の可能性を各話ごとにたどっていく物語の10回目に用意された選択肢は「ひきこもり」。自室の四畳半で何もせず引きこもっている「私」の眼前に、無数の四畳半世界(パラレルワールド)というかたちで、無数の「私」の可能性が展開される、一種のメタストーリー。似ているけれど少しずつ違う「自室」を目の当たりにした「私」は、もうひとりのありえたかもしれない「私」の輝かしい姿を猛烈に渇望する。
うーん・・・気持ちとして分かることは分かるんだけど、ぼく自身はずいぶん前から「あのとき、あの場所で、別の選択をしていたら、きっと今の自分はカクカクシカジカ、ウンヌンカンヌンだったに違いない!」という仮定法過去みたいな発想は意識的(あるいは無意識)に避けているんですね。簡単にいえばそんなことをいくら考えても過去の自分には戻れないし、何よりも今の自分が惨めに思えてくるじゃないですか。それが凄くイヤなんだ。ちょっと考えるだけで死にたくなる。
それでも、そういうことをひたすらグダグダ考えたり、人に語ったりするのが好きな人もたまにいる。それもけっこう厄介。大学のとき「あの入試の英語のテストでミスらなかったら、もうひとつ上の大学行けたのに!」とかしつこく後悔するヤツがいたけど、そんなんいわれても「知るか!お前の頭がその程度やったんやろ!」くらいしか言えまへんがな。
それと、年をとると自分の「クセ」みたいなところが分かってくる部分もありますよね。
仕事、人付き合い、恋愛、個人的な趣味・・・まあ何でも良いんだけれど、相対するものが少しずつ違ったとしても、それらに向き合う自分のスタンスとか、見方やら考え方なんかは、大して変わらない。だから誰と会っても似たような距離の取り方をするし、似たような結果しか生まれない。まあ、いくら頑張っても、選択肢の1つや2つが変わっても、せいぜい自分ならこの程度しかできないだろうみたいな。過去を回想することはあっても悔やむことはほとんどない。まあ、自分で言うのもなんだけど、割と諦めの良い性格なのかも知れない。
ひきこもりと言えば、数年前から自分にもそういう傾向があって、20代のころに比べたらリアルの交友関係は10分の1くらいに減っている。そりゃあ人付き合いが上手くやれたらそれに越したことはないだろうし、楽しいに違いないけど、自分にはそういう気力や体力が欠けている。寂しいという気分がないでもないけれど、まあそんなものかという諦念の感のほうが強い。そんなぼくみたいな人間のほうに近寄ってくる人といえば、たいていはちょっと変わったタイプの、自分の話したいことで頭がいっぱいで、人の話なんかまるで聞いちゃいないタイプの人が多い。まあそれでも、そういう人間関係でもないよりはあるほうが良いのか、悪いのか。