『1Q84』BOOK 3読了

購入から10日ほどで読み終えました。

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

うーん・・・物語としては正直なところ今ひとつでした。ぼく個人としての山場はBOOK 2で青豆が「さきがけ」のリーダーを殺すくだりの長い対話シーンで、悪の組織のボスキャラと思われた人物が意外にもそうではなく、次世代への預言者的なポジション(『ねじまき鳥クロニクル』で言えば、間宮中尉ソ連軍将校のような)をとっているところが面白かったです。
ただ、あのリーダーを手に掛けた後の青豆は目に見える敵を失ったせいか、憑きものが取れたというか、以前のギラギラした魅力がなくなってしまったのも事実で、BOOK 3から新しく主人公となった牛河も、青豆や天吾と同じように家族への複雑な思いを抱いた孤独なキャラクターなので新鮮味はほとんどなかったですね(まあ、村上春樹的な人物造形ではあるけれど)。また、物語の新しい展開よりも、いままでの経過を別の視点から見直した「まとめ」的な色合いを強く感じた巻でもあります。
天吾のチャプターでは、療養所にいる父親との再会がポイントなんだけれど、読み進めていくうちに村上春樹的にはこのエピソードはもうどうでもよくなってるんじゃないかな、結局のところ青豆と天吾をさっさとくっつけちゃいたいだけなんだよね、そうだよね、という気持ちが先に来てしまって、読んでいるぼく自身のテンションがぐぐっと下がってしまいました。最後の5チャプターくらいは「はいはいおめでとうおめでとうよかったよかった」って昭和のいる・こいるみたいな相づちを打ちながら半ばヤケクソ気味に読んでたりしたんですが。それはそうとして、まあ何というか話の密度が薄くて期待はずれ・・・というのが読了直後の印象でした。
でも、ただつまらないだけの物語かといえば、そうでもないと思います。
個人的に引っかかったのが、複数のエピソードに登場する「NHKの集金人」です。小説の中では「天吾の父親の生き霊」みたいに位置づけられていますが、あの非常に不愉快なキャラクターを執拗に持ってくるのは何らかの意味合いをそこに含めようとしているのだと思います。ものすごく大ざっぱな表現をすれば、あの集金人は「日本現代史の負の部分」を象徴しているようにも感じられます。そこは読み手各々の解釈が許される部分ですが、かつて『ねじまき鳥クロニクル』の主人公が、自分と直接関わりのない親世代の戦争時代の物語を引き受けたのと同じように、ここでは天吾の父親が、自分の子供に当たる世代に何らかの物語・歴史を引き継がせようとしているのではないか。
昨年、たしか文藝春秋のインタビューで語っていたことも重なるかと思いますが、全共闘的なもの、オウム真理教的なもの、パターナリズム的なもの、あるいは右肩上がりの経済成長に疑いもせずぶら下がっていた日本人のメンタリティ等々、今となっては「負の部分」でしかない要素をも「日本現代史の一部として引き継いでくれ」という村上春樹のメッセージなんじゃないかと思えてきました。
村上春樹はもう還暦を迎えた人ですから、世代的には天吾の父親と同じなわけで「歴史の聞き手」ではなく「歴史の語り手」の立ち位置にいてもいい人です。自分は直接関わっていないにしても現代史の「負の部分」をリアルタイムでいろいろと感じ取ってきたはずです。そのあたりを自分の子供世代(作品中の青豆や深田絵里子たち、あるいは30代以下の読者)に語りかけようとすれば、非常に不愉快でノイジーなものとして受け取られるかも知れない。しかし、そういったリスクも歴史の語り手としては引き受けなければならない。そんな思いを、あの集金人を介して表現したかったのではないかと思ったりします(あくまで憶測ですが)。
この『1Q84』が全3巻、最後はめでたくハッピーエンドで終わってそれで良いのかといえば、まったくそうではなく、かなり消化不良なところが多いです。父親との関係に一応の決着を見た天吾はいいとしても、青豆の周辺は不安定な要素が残っていますし、深田絵里子や、あのリトル・ピープルについてのエピソードは尻切れトンボのままです。BOOK 3で「歴史」の面でひとつの区切りがついたならば、あとはそれ以外のところを続編で繋げていってほしいですね。
たとえば、天吾と青豆が去った後の「1Q84」の世界で異常繁殖したリトル・ピープルが一種のウイルスとして猛威をふるい、感染した人々が人類補完計画よろしく溶解していって世界は壊滅寸前、それでも増殖の止まらないリトル・ピープルは高速道路地下の秘密トンネルから天吾たちの世界への侵入を狙い、新たなカリスマとして君臨する深田絵里子とファイター魂を復活させた青豆の対決・・・とかなんとか、ぼくの妄想は止まりません。続編は完全なエンタメ志向でよろしく(笑)。