日本辺境論(2)

つづき。

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

師弟関係についてのくだりを引用

弟子が師に向かって「先生、毎日便所掃除とか廊下の拭き掃除とかばかりで飽きちゃいましたよ。いつになったらぼくに極意を教えてくれるのですか。ねえ、先生ってば」というような督促をすることは許されません(ふつう、そんなことをやったら即破門)。というのは、師弟関係を起動させるために、師はできる限り弟子から見て無意味と思える仕事をさせるに決まっているからです。それがいちばん効率的だから。もし、うっかり新参の弟子にでもその有用性が理解できるような仕事を言いつけたら、弟子は自分自身の判断枠組みの「正しさ」を追認してしまいます。(中略)学びのモチベーションはそれによって致命的に損なわれる。伝統的な師弟論はそう考えます。(p.144-5)

しかし、師は澄まして「これが修行である」と言い張る。弟子は困惑します。困惑のあげくに、「先生が私に無意味なことばかりさせるはずがない。ということは、私は意味のあることをしているのだ。つまり、先生はあまりに偉大なので、そのふるまいが深遠すぎて、私には「意味」として察知されないだけである」というかなり無理のある推論にしがみつくようになります。(p.146)

このへんは日本人として(笑)何となく分かるんですけどね。毎朝若い社員に「便器をねぶれる(舌で舐められる)くらいピカピカに磨き倒させる」という話は親戚から聞いたことがあるし、目下の者に理不尽な行為を強要させる例としては、体育会系の部活動、将棋指しや落語家の住み込み、禅寺修行、相撲部屋、高級割烹、エトセトラエトセトラで枚挙にいとまがない。理屈はともあれ頭じゃなくて「身体で覚えろ」式に叩き込むのが(長期的な視点で見れば)うまく行くというのは、一種の経験知として分かることは分かるんだけど、師の側が第三者から見ても「まともである」ことが前提条件になってるわけで、そこが落とし穴でもあると思うんですがね。
引用した日本的な師弟関係の話を、著者の内田樹さんは肯定的に評価していますが、以前に読んだ中島義道さんのエッセイ(タイトルは失念)で、日本人の弓道家に教えを請う海外の青年が「とにかく無心になれ!」という師の指導に困惑させられた実例が紹介されていて、そこでは日本的なレクチャーの仕方がかなり批判的な視点で捉えられていました。
それはともかく、弟子の側が「先生はあまりに偉大なので・・・」と感じたとして、それが彼の向上心に結びつくかどうか、そこでもちょっと疑問がある。昔の相撲取りみたいに田舎から裸一貫でやってきてもう他に行き場がないんです、的なシチュエーションだったら何はともあれ師に食らいついていこうとするんだろうけど、他に学びの選択肢がいろいろあったら伝統的なレクチャーは廃れるでしょう。それが現在の相撲部屋での人材難と違いますか。