ETV特集 シリーズ「日本と朝鮮半島2000年」第10回“脱亜”への道 〜江華島事件から日清戦争へ〜
概要
途中から、江華島事件の直後くらいから見た。
朝鮮国内での新旧対立、それに覆い被さるようにして生じる日本と清国の対立、そういう構図は、数年前に読んだ角田房子著『閔妃暗殺』でざっと知った話だった。大院君(テウォングン)や金玉均(キム・オッキュン)という人名はこの本で初めて知った。福沢諭吉と金玉均の交遊、福沢が脱亜論に向かうプロセスも。
- 作者: 角田房子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1993/07/29
- メディア: 文庫
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ここで国家の近代化をやらないと列強国に屠られる、という危機感は日本にも朝鮮にもあったはずだし、それだからこそ福沢諭吉と金玉均の交流もあったのだろう。ただ、ここからはぼくの推測だけれど、朝鮮人にとっては「近代化って、結局はどこかの強国にべったりすがりつくことなんじゃないのか?」という不信感も少なからずあったと思う。それゆえの壬午軍乱であり、甲午農民戦争なわけで。
「脱亜論」という言葉の意味づけについては、ゲスト出演していた日韓の先生の間で見解が分かれていた。
日本の先生は「脱亜論とは"Escape from asia"つまりアジアから日本が手を引くということ、甲申事変で金玉均のクーデターが失敗に終わったことで福沢は、日本が東アジア(中国・朝鮮方面)にコミットすることの困難を感じた。つまり『東アジアからの撤退宣言』である」と主張。
それに対して韓国の先生は「確かに福沢には、清国への怒りや朝鮮への幻滅もあったが、結果的にその後の日本が帝国主義化するきっかけになった」と主張。脱亜論に帝国主義的な色合いを見いだすかどうかで、両者の見解は分かれた。
まあ、韓国側としては、日清戦争・日露戦争、そして日韓併合という流れの中で「脱亜論」を見てしまうのは仕方ないか。仮に福沢の思いが「東アジアからの撤退宣言」だったとしても、日本という国はその後どんどんアジアを侵略しているじゃないか、という話だ。
歴史については不勉強なのですが、日本という国を「欧米列強の台頭に晒されるアジア諸国」のひとつとして見るか、それとも「欧米列強と同じ軍事大国、侵略者」として見るか、という問題もあると思います。これは、どちらが正しい見方というのは絶対に言い切れない。
脱線
そこで、ぼくの意識は、昨年見た映画『アバター』や、もっと前の『ラスト・サムライ』に飛んでしまうのですが、日本人にとってこれらの作品は、強者にも弱者にも感情移入できるという利点(?)があって、それはまさに明治時代をルーツにしているように思えるのです。
これがアメリカだとやっぱり文明批判とかエコロジー的な見方になるんだろうけれど(つい最近では「反米映画だ!」という保守派の意見も出ていましたが)、それはつまり「強者の視点で弱者を見る」ことに他ならないんじゃないか。そこで日本人がアメリカ人と同じような見方や感じ方しかできないのなら非常に勿体ない話であって、それは歴史的に「弱者であった記憶」の喪失なのではないか。
とまあ、このあたりは宮台真司が5年くらい前に「亜細亜主義」という括りで既にやっていた話ではありますが、最近で言えばiPhoneの登場*1で日本のケータイ市場が変わってきたとか、記者クラブ体制が崩壊するとか、クロスオーナーシップの話とか、そういうところと結びつけて考えても面白いかと思う。すごくいい加減な雑感ですが。