かいじゅうたちのいるところ
- 作者: モーリス・センダック,じんぐうてるお,Maurice Sendak
- 出版社/メーカー: 冨山房
- 発売日: 1975/12/05
- メディア: 大型本
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ぼくの、ものすごく個人的な印象ではそういう部分もある映画だった。まあ、作品の冒頭に出てくるベッドルームや雪で作ったイグルーは、そんな、誰にも邪魔されない心地よさの象徴であり、さらにはクリエイターと呼ばれる人たちが自分の想像力を存分に伸ばすために必要不可欠なアトリエでもあるのだろう。
スパイク・ジョーンズの作品では、もう10年近く前の『マルコヴィッチの穴』にも同じような感触があったと記憶している。主人公は、作者つまりクリエイターの写し絵であり、その内面に抱える万能感、あるいは周囲との齟齬によって生じる孤独感や疎外感。そうしたものがこの映画の中でも如実に現されていた。
うっとうしい現実から逃避したはずなのに、逃避先でもまたうっとうしくしがらみに満ちた現実に対面させられる、というのは皮肉といえば皮肉なんだけど、そこらへんが世間を見てきた大人にはリアルな、まさに「大人向けの寓話」として感じられる部分でもある。一見、自分のやりたいことだけやってその日その日を生きている風の「かいじゅう」たちも、実はそれぞれに「対人関係」のめんどくさい部分を抱えているわけで、主人公のマックス君がその世界で「王様」になり切れないのは、つまり、かいじゅうさんたちに言わせれば「君もぼくたちと同じようなところがあるんだろう?」ということなのかも知れない。
ただ、かいじゅうさんたちの中でも、一匹狼的なキャラのキャロルがマックスと同じく「クリエイター的な部分」の持ち主として対比的に設定されているのも面白い(キャロルには、微妙にキレる場面もあってそれはちょっと怖かったりする)。
物語の終盤はかなり急展開でいささか拍子抜けの印象も否めない。とはいえ、全身着ぐるみの子供が異世界に旅立つ点では『よなよなペンギン』と同じ構図でありながら、見えてくる世界がこうも違ってくるのだなあと、ぼくは変な感心の仕方をしてしまったりする。この『かいじゅうたちのいるところ』は、決して子供のピュアネスな部分を無邪気に称賛する作品ではなくて、クリエイターたち(クリエイターは「問題児」でもあります)の内面を赤裸々に現してくれる作品なのだと思う。