アバター

公開初日は見に行けなかったので今日見てきた。実は今朝から激しい頭痛に襲われて、バファリンを飲んだもののいまいち完治せず、なんとなく頭の表皮下に頭痛の種っぽいものが残っていたんで、こんなコンディションで映画というのもどうかなと思ったのだが、見に行きたい!という欲求の方が買ったので自宅からMOVIXのチケットを予約して劇場に向かったのである。
それで、この『アバター』の売りと言えば3D映像なんだけど、シアターの前で渡されたごつい3Dメガネの満足度はいまいちだったなあ。なにせ普段からメガネをかける習慣のないぼくにとっては、3時間近くも鼻の頭を圧迫されるのはかなり苦痛でしたね。また頭痛がぶりかえすのかよ!という不安も覚えたし。その上、映像を見ていて「わおっ、この立体感すげー!」と叫びたくなるようなシーンもあまり出てこなかった気がする(ぼくの目が悪いのか?)。まあ、主人公ジェイクたちが始祖鳥みたいな鳥にまたがって崖を急降下したり、猛スピードで飛びまくるところはかなりの迫力だったのは間違いないが、字幕の文字が映像から浮き上がって見えたほうが印象に残ったし、わざわざ3D映像にしなくても・・・と思ってしまったのも事実である。これって普通の映画館では3Dの迫力出せないの?アイマックスシアターじゃないとダメなの?
で、映画の内容なんですが、

映画の方は、基本的にSF版の「ダンス・ウィズ・ウルブス」。異民族の中に単身乗り込んだアメリカ人がその異民族に肩入れしてしまい、最後には異民族側についてしまうという物語。ものの十数分で基本的展開がわかり、またかと思ってしまった。アメリカ人は「ミッション」とか「ラストサムライ」とか、定期的にこの手の話を作る。何か周期があるのだろうか。どこかでドンデン返しがあるかと多少は期待したのだが、善玉と悪玉の超わかりやすい二元的戦いというベタ中のベタな展開に終始しており、最後までいい意味での裏切りはなかった。
「ダンス・ウィ..」アバター@ぴあ映画生活レビュー

と書かれている感想とぼくもほぼ同じですね(笑)。
何というか、コロンブスの新大陸発見以降、略奪・搾取を繰り返してきた西欧的植民地主義への贖罪意識がアメリカ人作者の中にはたらいているのか知らんとは思う。まあ、ジェイクが原住民ナビーの信頼を勝ち得ることができたのは仮想キャラの身体をまとったからなわけで(その仮想システムを作ったのは他でもない、ナビーたちにとって憎っくき人間どもである)そこに若干のヒネリを感じないでもないが、物語の構図としては「弱者vs強者」の単純極まりない二項対立であることは間違いない。
まあ、そこで人間とナビーの狭間でジレンマに苦しむ主人公の心的葛藤を全面に出したらどうだったかと言えば、どうしても娯楽性が後ろに下がってしまい、ぼくたち観客は後味の悪い印象を抱えながら劇場を出て行くことになったかも知れない。ここに作品づくりの難しさがあると思う。
そういう意味では、今年の夏に見た『サマーウォーズ』は格段の出来映えだった。主人公の少年は『アバター』のジェイクと同じく旧世界の住人にとってよそ者であり、当初は招かれざる客だったが、やがて彼が中心となって新世界の作り出した「モンスター」と戦うストーリーになっている。ここでは旧世界のもつメンタリティ(団結心)を称賛しつつも、新世界側のテクノロジーを否定することはしない。なぜなら、映画の作り手はもちろんのこと、映画を見ているぼくたちがまぎれもなく新世界側の人間だからだ。つまり、自分たちがテクノロジーやグローバリゼーションの恩恵をしっかり受けていることを忘れて、無邪気に植民地主義批判やエコロジー賛美を唱えるのはどうよ、ということ。
こういった「自分の立ち位置をわきまえろよ」的な話は、以前に宮台真司が「クーラーの利いた部屋で近代文明批判の本を読む」という譬えで端的に現していたけれど、そういう視線が物語の中に欠けているところが本作に覚えた物足りなさだった。まあ、娯楽として見るには申し分のない出来映えですけれど。
あと、少し前にTwitterで「未来のアップル製品みたいなのが出てきた」という感想を見かけたけれど、劇中に出てくる透明のタッチパッドタブレットみたいな奴でしょうか。確かにあと10年くらいしたら、映画でやってたみたいに手でデータをすくい取って他デバイスにコピペみたいな技術も普通になってたりするのかもな。