『天文法華一揆』

新書ながら1900円。その分読み応えもしっかり。

天文法華一揆 ~武装する町衆 (洋泉社MC新書)

天文法華一揆 ~武装する町衆 (洋泉社MC新書)

激動の室町時代末期を舞台に、法華宗によって団結する京都の町衆、将軍家、守護大名、公家、そして他宗派の動きが生々しく見えてくる。ぼくはこの時代についてほとんど知らなかったのだが、なんでも室町幕府の12代将軍・足利義晴という人は1528年(享禄元年)より近江の山中に逃亡しており、京都では幕府の権力基盤がなくなっていたらしい。京都の周辺に目をやると、堺では一向一揆の勢力が山城守護代・三好元長を自殺に追いやり、奈良では興福寺周辺が真宗の門徒によって襲撃されるなど、かなりの猛威を振るっていた。
そうした流れと前後する形で、京都では町の治安を守るべく町衆の武装化が進んでいた。ただ、当時の資料が少ないせいか、本書を読むかぎりでは法華宗と町衆がどのように結びついていったかはいまいち分かりにくい。とはいえ、法華宗は京都の市民層をターゲットにした布教活動を重ねており、蜂起した町衆の集結する場所としては、妙覚寺や妙顕寺などの法華寺院が使われていたのではないかと著者は推測している。
一方、逃亡中の室町幕府守護大名・細川晴元らは、このような町衆の動きに目を付け「京都の日蓮宗徒こそ一向一揆によく対抗しうるであろうという見通し(本文77頁)」のもとに、彼らと手を結ぶに至ったとのこと。というわけで、法華一揆なる勢力が京都で力を持った背景には、宗教活動家、町衆、幕府、大名といったそれぞれの利害関係が一致したこと事実があるわけだ。
ぼくは、先に『本願寺』を読んだこともあって「当時の日本人は宗教というものに熱かったんだなあ」と性急な結論を出してしまったのだが、もちろん宗教が人々を団結させるだけの力を持っていたことは事実としても、それだけではなく政治や利害関係を含んだかなり生臭い要素が少なからず介在していたのも間違いないだろう。
1532年(天文元年)における浄土真宗の拠点・山科本願寺の焼き打ちにおいては、細川晴元・六角定頼らのほか、興福寺・東慈明寺・蓮養坊などの他宗派も法華一揆に連合していたが、4年後の1536年(天文五年)には、天台宗の山門が他宗派を総動員して法華弾圧を強行しようと諸方面に援軍の催促を行った。ここで宗教上の教義などは二の次、宗教者たちの血なまぐさい権力闘争の一面がもろに出ている。一方、将軍家や細川氏などは模様眺めを決め込んだようだが、山門と法華一揆の対立を見過ごすことで結果的に法華勢力が京都から一掃されることを望んでいたと著者は見ている。

一向一揆と幕府の全面的な対立はもはや収束しており、晴元は入京の機を伺っている。この状況下に法華一揆の存在はもはや幕府・晴元にとって障害であり、まして地子未進闘争や法華一揆の地下請は諸権門にとって百害あって一利無しである。出来ることなら法華一揆を葬ってしまいたいが、何しろ一向一揆との戦争で晴元側には巨大な借りがあり、法華一揆を討つ名目がない。それを延暦寺側でやっつけてくれるならそれに越したことはない。晴元が松本問答を奇貨として、山門大衆を挑発させる裁許を幕府に出させた・・・という推理は決して不自然ではないのである。(P.230-1)

幕府や細川氏と手を結び、京都において勢力基盤を確立したかに見えたのもつかの間、あっさりと権力サイドに裏切られてしまう法華一揆のありさまを著者は「ピエロ」と冷徹に評価しているが、法華側としては(自分たちに多少の権力欲や驕りがあったとはいえ)利用するだけ利用して見捨ててしまう権力者の現金な態度には腑の煮えくり返る思いだったに違いない。まあ、ぼくの実家が日蓮宗なのでいきおいそっちの肩を持つような見方をしてしまうのかも知れないが、それはともかくとして1536年の7月、山門側との戦いに破れた洛中の法華宗21寺院はすべて灰燼に帰してしまうのである。
室町末期の短い期間ではあれ、武家ではない町衆という市民勢力が武装して自治を行おうとした点は、石山本願寺における自治と並んで日本史の中で注目すべきトピックだろう。それが最終的に権力側に押さえ込まれてしまう流れを、著者は1572年のフランスにおけるセント・バーソロミュー(最近ではサン・バルテルミの記述のほうが一般的か?)の大虐殺と重ね合わせているところが面白い。

本書を読むきっかけとなったtwitterポスト
Twitter / kogurenob: 山科のまちづくり授業の関係で、中世に興味がわくこの頃。今谷明 ...
どうもありがとうございました。この場を借りてお礼させていただきます。