『本願寺』

本願寺 (講談社学術文庫)

本願寺 (講談社学術文庫)

親鸞については昨年あたりから梅原猛吉本隆明、阿満利麿などの著書を読んでいたが、それ以降の子孫の行跡に関してはほとんど知る機会がなかった。本書は親鸞の子孫、浄土真宗、本願寺の移り変わりを親鸞の生きた鎌倉時代から明治時代まで通して追っているので、初心者にも取っつきやすいのではないか。とはいえ、文中にあまりなじみのない僧侶や寺院の名前もばんばん出てくるので、索引付きでなかったら読みづらかっただろうな。
本書で押さえておきたい流れを3つほど挙げてみると

(1)鎌倉時代〜室町時代親鸞没後、彼の子孫たちが継承者として「本願寺教団」を率いる体制が確立するまでのプロセス)
(2)室町時代後半(蓮如以降、教団が応仁の乱をはじめとした武家の争いに巻き込まれながらも勢力を拡大していくプロセス)
(3)戦国時代(石山本願寺の誕生・繁栄・壊滅)

まあ、こんなところでしょうか。
(1)は、親鸞生前における実子・善鸞の義絶を伏線に、覚恵と唯善(親鸞の娘・覚信尼の異父兄弟)の跡目争い、第三代宗主・覚如による教団体制確立が目立つポイント。他宗派と違って妻帯を容認したのが大きな要因なのだろうか、武家や貴族さながらのお家騒動が初期のうちから連発している。本書から一部引用。

親鸞の教えが実社会に弘まる場合、親鸞を棟梁と仰ぎ、身分制秩序の脱け難い教団ができるのは避けられないことであった。親鸞の門弟は、また各々法統を正しく継承するものとして、同行=門末から小親鸞と仰がれるのである。それはまさに土地台帳の長さよりも、臣下の数によって君主の能力が規定される封建関係にほかならなかった。
(中略)
親鸞の後継者と信ぜられるものが出現すれば、親鸞の教えを新しい呪術的手段とし、門末を強力に統制できるはずであった。真宗教団が阿弥陀如来の光明を背景に、親鸞の血統を法王とする仏国として、封建的秩序を形成してゆくのは、親鸞の論理ではなくこの世俗の論理に基づいているのである。(p.28-29)

(2)では、まず蓮如ですね。蓮如は特に北陸地方で教団勢力を伸ばしていった人で(本書には「洗脳」という形容もあるが)真宗を奉じない領主には年貢を納めないぞという姿勢をとることで武将・守護大名を引きつけるほどだったそうな。本書には

彼にとって門徒は「一大事の御客人」で、上洛してきた門徒には、寒天には酒に燗をさせ、炎天には酒を冷やさせて出し、門徒に出す食事にはことに注意したといわれている。このように「如来の御代官」であり、一家衆と門徒とは食器まで厳重に区別したという優越意識を、平民的態度でカモフラージュする蓮如の柔軟さ(p.182)

との記述があるように、人心の掌握がなかなか巧みだった人物のようだ。
蓮如の曾孫にあたる証如の時代には他宗派との衝突も激しかったらしく、真宗教団は武装集団としての側面も持っていたようだ。一向一揆の勢力は奈良・興福寺を焼き払ったり、春日社で略奪を働いたりしたそうな。京都では日蓮宗との争いがあり、当時山科にあった本願寺は焼かれてしまい、本願寺は大坂に移る。
(3)新しく本願寺となった石山本願寺についてはパードレ・ガスパル・ビレラの書翰記述が興味深い。

諸人の彼(本願寺法主)に与ふる金銀甚だ多く、日本の富の大部分は、此坊主の所有なり、毎年甚だ盛なる祭(報恩講)を行ひ、参集する者甚だ多く、寺に入らんとして門に待つ者、其開くに及び、競ひて入らんとするが故に、常に多数の死者を出す、而も此際死することを幸福と考へ、故意に門内に倒れ、多数の圧力に依りて死せんとする者あり、夜に入りて、坊主彼等に対して説教をなせば、庶民多く涙を流しす。(p.208)

信仰のためなら死んでも構わない、いやむしろ死ぬことこそが本望だという心境はそう簡単に理解できるものではないが、後のキリシタン禁令に至る時期までは、総じて日本人が宗教に対して異様に熱かった時代なのかも知れない。その後、日本人が宗教に再び熱を入れるのは高橋和巳の『邪宗門』に描かれた昭和初期あたりだろうか。
それはともかく、同じ戦国時代には日蓮宗側で「天文法華の乱」というのがあった・・・ということを先日訪れた国立博物館での「日蓮と法華の名宝展」で知った。この事件については別に本が出ているようなのでこちらも読んでみたい。

天文法華一揆 ~武装する町衆 (洋泉社MC新書)

天文法華一揆 ~武装する町衆 (洋泉社MC新書)

戦国時代といえばどうしても武将が中心だが、僧侶をメインとした戦国の物語も読んでみたいなあ。