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『放浪息子』最終話雑感

二鳥君のセーラー服登校(第9話)の余波がなお後を引く最終話。
今のところ、原作は10巻までしか読んでいないので、もしかすると事実誤認があるかも知れません。それはそうとして、声変わりという身体の変調を契機として、とうとうにとりんも自分を「男」として自覚するようになったか、これで女装趣味にケリをつけることになるのか、とまあ、そんな思いもよぎります。二鳥君にヘアピースをつけていた千葉さんが「二鳥君は私にとってずっと特別な男の子だったわ」と意味深な「過去形」の感慨を露わにするくだりも出てきましたし、彼女もまた今までの自分のスタンスに区切りをつけようとしているのではないかと思えます。
ただ、マコちゃんにとってにとりんは「かわいい」存在であり続けるだろうし、ラスト近くに出てきたユキさんは、二鳥君の将来にひとつの「選択肢」を投げかけているのではなかろうか、とも思います(深読み過ぎるかも知れないけど)。
ともあれ、ひとつひとつの描写が、決して物語としての大きな「流れ」に収斂していかないところがこの作品らしさなんですよね。
まあ、アニメのキャッチコピーからして「女の子になりたい男の子と、男の子になりたい女の子」ですし、作品中で二回も倒錯劇(文化祭の出し物)をやっているのを見ると、トランスジェンダーやセクシュアル・マイノリティをテーマにしたい作品のようでありつつ、それだけで作品を納得してしまうには無理があります(そうした概念に対して作者がリベラルな視点を持っているようには感じられますが)。

決してセクシャルマイノリティ二元論という言葉や世界を表現せず、引き合いに出さず、このテーマをここまで芸術的に描けるのは絶対に志村貴子しかいない。
表現の次元がそもそも違うと思う。このテーマを扱うには、著者による強い「意思」や「ゴール」があって始めて原動力になり、カタルシスを形成する核になると思っていた。かつ、それをデザインせずにリアルに扱う事はタブーであり、困難だというコンセンサスさえあったと思う。
抱けばつまらぬ身体だけれど 語りつくせない放浪息子

確かにそうですね・・・なかなか上手く言えないけど。
この作品にあえてテーマを見いだすとすれば「個々の思いのすれ違い」といったところでしょうか。誰ひとりとしてポジションや物の見方が重ならない、というのは、個々のポジションがカッチリ固定されているゆえに他人と相容れない、というわけではなくて、むしろ個々のポジションはたえず流動している、だけど、その過程で誰かと誰かの思いが合致することは決してなくて、起こるのはすれ違いや衝突ばかり。仲良くつるんでいるように見える友達関係が出てきたとしても、映し出されてくるのは「差異」ばかり。
仮に、作品の主要テーマが「セクシュアル・マイノリティ」だったら、マイノリティとマジョリティのキャラクターが対立することになるのでしょうけれど、この『放浪息子』では、たとえば女装で登校してきた二鳥君に冷たい視線を投げかけるマジョリティは「名前の付いてないその他大勢」であって*1、キャラとして確立された子、たとえば土居君なんかは(無神経な言動は多々あるけど)マジョリティとは言い切れない。ほかの主要キャラと同様、微妙に動揺しつづけているんですよね。ひとりひとりに焦点を当てていったら「この子はこういう性格で、こういうポジションにいて・・・」と固まった評価はできなくなる。作品の中にそういう構造があるんだと思います。
固まった評価ができないキャラといえば、ちーちゃん(更科さん)が面白い存在でした。最初に出てきた時はずいぶん大人びてクールな子に思えたのですが、空気の読めないウザキャラ的なところも少なからずあり、そうかと思えば、二鳥君の身の上相談に乗っているくだりではとても頼もしく見えたりもしました。アニメの最終話ではガクンと存在感が薄れてしまったのがやや残念です。
ともあれ、二鳥君と高槻さんがそれぞれ「女の子になりたい、男の子になりたい」と思っていたのは「一時の気の迷い」なのかどうなのかはよく分からないです。仮にそうだとしても、それが誰にでも当てはまる話かといえばそうではないですね、ユキさんの存在を見れば。*2
あと、自分が「かくありたい」と思っている自己像が、実は他人が「そうあってほしい」と思っている願望を知らず知らずのうちに取り入れてできちゃったもの、だったりするのかも知れず、そのあたりは思春期の子だけではなく、わりとよくある話だったりするのかも。
ぜんぜんまとまりのない文章ですいません。

*1:こういうマジョリティの姿が前面に出てきたのは、後にも先にも第10話だけだったのでは?

*2:少なくとも、作品の中でトランスジェンダーやセクシュアル・マイノリティといった存在や概念は、肯定も否定もされていないと思います。