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日本的霊性

思ったよりも読みやすかった。

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性の「日本的」って何だ?というところから考えたくなるのですが、まあ簡単にいえば「理論や理屈じゃなくて直感」とか「考えるな!感じろ!」みたいなスタンスが著者・鈴木大拙が考えるところの「日本的」なのではないかと感じました。
本書第四章「妙好人」より、浅原才市のポエムからしてこんな感じだし。

「どをり(道理)りくつ(理屈)を聞くぢやない、
あぢ(味)にとられて、あぢ(味)をきくこと、
なむあみだぶつ。」(p.240)

考えてみれば、日本発祥の神道からして明確な教典や教義を持たないわけで、そのことからも日本人の宗教的感性が理論や理屈とは馴染まないのかなと思います。ただ、鈴木大拙神道(本書では伊勢神道への言及あり)に一定の理解を示すものの、仏教と比べると未熟な宗教という位置づけをしています。

清明心・丹心・正直心などというものは情性的直覚であって、まだ霊性的領域にはいらない。物忌みするとか、穢れを祓うとかいうことも、いま一段の深みを加えてこぬと、原始民族の心理以外に出ないのである。伊勢神道は、これらの情性的直覚に対して形而上的または宗教的基礎づけをしようと試みたが、必ずしも成功したとは言われぬ。なんとなればこれらは霊性的直覚でないからである。(p.123)

情性と霊性の対比は、平安時代と鎌倉時代の対比にもリンクしています。平安時代の貴族文化は情性面での作用をもたらしたものの霊性を呼び起こすレベルには至っていない。そこに至るには「自己否定の経験」が必要だと説きます。

物のあわれでは、まだ感情の世界にうろうろしているものと見なければならぬ。そこには霊性の動きが認められぬ。自己というものの源底を尽くしていない。いわばまだ病気にかかっていない、自己否定の経験がない。病気というは、この経験のことである。普通にいう病気は肉体の否定である。この否定で肉体の実在に逢着する。(中略)宗教意識は、ここで初めて息吹し始めるのである。(p.85)

病気だけではないと思いますが、自分の力ではどうにもならない事態に置かれることが契機となって、人は人智を越えた存在や力に気付き、霊性に目覚めるというのが著者の考え方。そういう意味で、鎌倉時代に相次いで流刑に処せられた法然親鸞をピックアップするのも自然な流れですね。
本書には「大地」という表現が何度となく出てきます。親鸞が流刑先で鍬をふるっていたのが本当かどうか知りませんが、既存の宗派組織を離れたところで生活に根ざしながら培っていった宗教意識が、著者のいう「霊性」を生み出すことになるらしい。このあたりの言い回しは主観バリバリ、イメージ先行の感があるので、そのまま納得していいものやらと困惑するところですが。
それはともかくとして、鈴木大拙は本書において、集団ではなくパーソナルな生活・行動のうちに芽生えた宗教意識を重視しているのがよく分かります。最初に挙げた浅原才市は、船大工や下駄職人の仕事をしながら「なむあみだぶつ」の文句をまじえたポエムを鉋屑(かんなくず)に記していたそうですし、越中赤尾の道宗のように誰に言われるでもなく過酷な苦行に身を投じていった人への言及もあります。
個人的な経験によって霊性・宗教意識には、理論や理屈に取って代わることのできない何かしらがあるのかも知れません。そのあたりがインドや中国から教典(理論)として入ってきたそのままの仏教とは趣の異なる「日本的」な匂いを嗅ぎ取れる部分なんだろうな、と無学な人間としても何となく感じられました。
ひとことで「日本的」といっても、仏教やその他学問・文化が外国から入ってくる前の「ピュア」な状態を「日本的」というのか、あるいは外国文化と土着文化の混ざっていく具合を「日本的」というのか、見方はいろいろあると思います。前者は本居宣長平田篤胤に代表される国学派的な見方、本書の鈴木大拙は後者ですし、松岡正剛の見方にも似たところがありますね。