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『ハーバード白熱教室』第6回を見た。

今更ながら、数ヶ月前に録画したまま放置していたのを見ました。
以前からの傾向だと思うけど、今回も「功利主義」への批判をにじませつつのカント論。
人間ってさ、けっきょく苦痛や快楽に左右されて生きてるんだろ?という功利主義的観点に対して、いやいやそれだったら人間も動物と変わりないじゃん、人間には動物がもたない「理性」ってのがあるのを知らねえのかよ、それにお前ら「自由」といったら好き勝手やりたい放題のイメージしかないだろ、ぜんぜん違うんだよ、本能や欲望、他人の意図にたえず左右されてるような「自由」は本当の自由じゃない、そんなもんの支配を受けず自律的に行使する自分の意思を「自由」って言うんだ、それこそ人間の人間たる所以なんだぜ、とまあ、そんな話。
サンデル教授の話を聞いていると、どうやらカントは「理性」と「人間の尊厳」を大きな根拠・前提としながら議論を展開しているようです。人間が本能や欲望に突き動かされるだけの存在ではないと言うのは、人間の中に「理性」があることを信じているからであり、他人を自分の(行為の)手段や道具として扱ってはならないと言うのは、どんな人間にも「尊厳」があることを信じているから。きっとそうなんだよ。
理性、尊厳、そんなもの本当にあるのか?と疑ってしまったらそこでカントの議論は終わってしまうに違いありません。賛否はあるにせよ、一応「ある」ということにして話を進める必要がありそうです。ここからぼくの勝手な推論ですが、たとえば数学で扱う円や正三角形などの図形を「純粋な円や正三角形はこの世に存在しない!」と言ってしまえばそこで数学は成り立たなくなるので、一応モデルとしてでも「ある」という前提に立つ必要があるのと同じことかな、と思ったりします。
サンデル教授が紹介した「三つの対比」のうち、定言命法仮言命法の対比が興味を惹きました。
講義に出てきた例え話を使うと「店の信用が落ちると困るから釣り銭をごまかしてはいけない」というのが仮言命法で、それに対して「店の信用を落とさない」という別の目的を持たずに「釣り銭をごまかしてはいけない」というのが定言命法。では、定言命法は何の前提や根拠もなく「純粋な命令」なのか。
たぶん、そうではないのでしょう。定言命法が「純粋な命令」かどうかが問題ではなくて、仮言命法のように命令とは別の「結果」の善し悪しを期待するのではなく、その命令と直結した「目的」や「動機」の善し悪しを問題とするのが定言命法のスタンスなのだと思います。その定言命法を後ろから支えているのは道徳性だったり、理性だったりするのでしょうけれど、ぼくの頭ではまだしっかりと掴めていません。
現実的な視点から言うと、純粋な意味での定言命法は存在しないのかも知れないし、定言命法かと思っていたら裏に別の意図を隠し持っていた仮言命法だった、という局面はそこかしこにあるのではないかと思います。その辺りを峻別するツールとしてカントの考え方を利用するのも悪くないかな(まあ、そういう発想自体が非カント的なのかも知れないけれど)。