借りぐらしのアリエッティ

ジブリ作品に対しては、個人的にはどうもハードルが高いというか「これまでの作品は全部見てきたし全部大好き!」という人じゃないと語るのを許されないようなイメージを勝手に持っていまして、そんな先入観のせいか「ポニョ」も見ていないんですけど、少し前に読んだ内田樹さんの評が興味を惹いたので見てみることにしました。
『借りぐらしのアリエッティ』を観てきました (内田樹の研究室)
物語の舞台は信州かどこかの田舎村で、アリエッティは両親と三人で暮らしている小人の女の子。小人たちのコミュニティーは年々減ってきており、その原因はどうやら人間にあるらしい。そういう背景が感じ取れます。
とはいえ、作品の中で小人と人間を(たとえば『アバター』の原住民と開拓者のような)シビアな対立構図としては捉えておらず、物語の視点が小人たちにことさら同情的なわけでもありませんでした。
小人たちの生活は決して自給自足ではなくて、ちゃっかりと人間に「寄生」しているし、一方の人間たちも小人を意識的に排除したり支配したりするわけでもなさそうです(家政婦には「排除」の意図がありそうですが、そこにあるのは悪意などではなく単純な好奇心だっと思います)。
そのような、事前に想像していた「政治的な」匂いはほとんどなかったのですが、その代わりに内田さんが指摘している「小人と人間の身体感覚のギャップ」のほうがより鮮明に感じられました。身体の構造が違う以上、それぞれの持つ感覚も違うのも当然といえば当然。人間にとってはどうってことのない物音が、小人には天地がひっくり返るくらいの暴力性としてキャッチされる。そうした、どうしようもない身体感覚のギャップを持つ者どうしが果たして「共生」できるかどうか。これは、簡単に善悪の基準で語れるものではないと思います(とはいえ、ぼくは「異文化共生」という概念自体を否定するつもりはありません)。
以下、内田さんのエントリーより引用。

映画のクライマックスはアリエッティと翔が指を触れあうところだけれど、ここで私は軽い失望を覚えたことを告白せねばならない。
なぜか人間の皮膚はこびとの皮膚と同質に描かれていたからである。
ガリバーの報告に従うならば、こびとの眼には人間の指先は深い溝が刻み込まれ、さまざまな分泌物や埃や汚物の詰まった、大小無数の「丘」の連鎖のように見えるはずである。
もちろんそこまでリアルに描く必要はないけれど、せめて「深い溝」くらいは描いて欲しかったと思う。
その触覚的違和感が感知できれば、人間とこびとの共生不能というアリエッティ一家の結論に観客は深く同意できたと思うのだが。

この部分だけど、わざわざ指紋の溝を用意しなくても充分違和感のあるカットだったとぼくは思うんですけどね。アリエッティの顔のすぐ前に(人間の指が)でっかい肌色の物体としてにょきっと出てくるわけですし(物語としては感動的なところのに)絵としてはぜんぜん美しくない。個人的には、あの違和感でしっかりと「共生不能」は言い表せたと思うのですが。
あと、興味を惹いたのがこちらの文章。

私たちの世界には、様々な生物が共存共栄しています。
動物も虫も、そして、植物も。本来、生物が生きていく上で境界線など存在しなかったはずです。
自分のものと他者のものを分けることはできなかったはずです。
人間も動物も植物も所有できるものなどこの世にありはしない。
全て自然の営みを借りて生活していました。
自然に寄生して生きているのは人間も小人も同じだったはずなのです。
ぷりんく: 借りぐらしのアリエッティ の検証~人間もまた寄生している~

アリエッティたちの生活を「寄生」と表現するとややネガティブなイメージになってしまうけど、私たち人間も自分では気付いていないだけで、広い意味でいえば「寄生」しながら生きている。こうした、人間も動植物も分け隔てなく生き物として見なす考え方は、わりと仏教的・アジア的な思想が反映されているのかなあと思ったりします。
作品タイトルにある「借りぐらし」は「仮ぐらし」でもあると思います。自分たちが住んでいるところは本当の意味での「自分の家」ではない。生活する上で特段不便がないから暫定的に「家」として使っているにすぎない。アリエッティたちの生活は、祖先の代から積み重ねられた事実性の上に成り立っているだけ、とも言えるでしょう。人生は仮の宿、とは誰が言った言葉か知りませんが、そういう仏教的無常観も作品の中にあるような、ないような。