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保守のヒント

土曜日に購入。ほぼ1日でひととおり読了。

保守のヒント

保守のヒント

最初と最後のほうに現代(2000年以降)への言及もありますが、内容の大半は、幕末から太平洋戦争まで、その間における日本国内の「保守・右翼」をめぐる状況の解説です。吉田松陰から始まって、西郷隆盛、神風連、玄洋社岡倉天心朝日平吾北一輝大川周明などなど。このあたりの固有名詞は、鈴木邦男宮台真司の著書やサイトで見聞きしたものが多いなあ。
興味を覚えたのが「ふたつのナショナリズム」と「ふたつのアジア主義」についての言及。これは著者ではなく、竹内好の言説らしいですが、以下に引用。

竹内好は、「ナショナリズムにはふたつの種類がある」と言います。それは「革命のナショナリズム」と「反革命ナショナリズム」です。これは竹内好の用語そのままです。「革命のナショナリズム」は国民主権を要求するナショナリズムであり、下からのナショナリズムです。それに対して、「反革命ナショナリズム」は国民を統治するためのイデオロギーとしてのナショナリズムだ−−これは『想像の共同体』というナショナリズム論の名著を書いたベネディクト・アンダーソンの言葉でいうと、「公定ナショナリズム」に相当すると思います−−このように竹内好はふたつのナショナリズムを区別します。(p.181-2)

日本における「革命のナショナリズム」の現れとして、板垣退助自由民権運動、それを支持した玄洋社が掲げた原則「人民ノ主権ヲ固守ス可シ」が紹介されます。この「革命のナショナリズム」は、国内の藩閥政治に対する反発に始まり、その後は西欧列強の支配に抵抗するためにはアジアの民と連帯しなければならないというムーブメントにつながる。それが竹内好のいう「ふたつのアジア主義」のうち、「革命的なアジア主義」に結びつくようです。
しかし、実際には「革命のナショナリズム」も「革命的なアジア主義」も実を結ばず、結果的にそれとは反対の「反革命ナショナリズム」「反革命的なアジア主義」に変質していきます。その変化を印象づけるエピソードとして「アジア主義を唱えるのであれば、二十一ヶ条の要求を取り下げてくれ」と要求した孫文頭山満が突き放してしまう描写が取り上げられています。
なかなか興味深いところですが、そこらへんの流れが、ぼくにはまだしっかりと掴めていません。本書に出てくる孫文もそうですが、それ以外に福沢諭吉金玉均とかも視野に入れないとダメかも。
また、「革命から反革命」への変質の背景として、超国家主義の台頭が挙げれらています。マルクス主義を経由した大川周明北一輝の登場、そして「王道楽土・五族協和」の石原莞爾石原莞爾関係については、対談に出てくる宮台真司の指摘を以下に引用。

率直に言うと、ぼくは彼らを戦前右翼の系列の王道だと捉えることにそれほど否定的ではありません。というのは、「超越的なものを参照する設計主義者」の極北に、アジア主義の最終形態としての日蓮主義があると思うからです。
(中略)
田中智学に従えば、日蓮主義者にとっては日蓮が大元帥。天皇は賢王つまり道具です。まず国民に天皇絶対主義を説き、次段階で天皇日蓮宗に改宗させれば、最終的に日本人全員が世界革命の戦士になれるという図式。でもこの図式における大元帥日蓮という概念がどの程度誠実な信仰の対象なのか、不明です。(p.142-3)

日蓮主義を引き合いに出した後には、当然のごとく高橋和巳邪宗門』への言及もあります。ああ頭がクラクラしてくる。
仏教がらみでいえば、日蓮とは別に、三井甲之の「中今論」というのが目を引きました。本書を読む限りでは、これは北一輝ら革新右翼の設計主義に対するアンチテーゼみたいですが、ここに親鸞の思想が組み込まれていったとのこと。

三井の著作のなかで注目すべきは、彼の宗教論を集成した『親鸞研究』である。三井は親鸞の「絶対他力」や「自然法爾」という思想を「中今」論と結びつけ、「本願力としての日本意志に帰命すべきことを説く。
(引用部略)
三井によれば、国民が「帰命すべき総体意志」は「日本意志」であり、それが阿弥陀仏の本願の働きそのものである。日本人が唱えるべき名号は「祖国日本」であり、祖国礼拝によって「はかなき現実」が「悠久生命につなが」る。日本人は現実のあるがままに任せ、ただ「日本は滅びず」と信じ、「祖国日本」と唱えれば永遠の幸福が得られるのである。(p.106-7)

なんとも香しきトンデモ思想。ここまで換骨奪胎されたら親鸞さんが化けて出るんじゃないですかね。それはともかく、上に出てくる「あるがまま」というフレーズに、意外と日本人は弱いような気もしています。下手な作為を加えずにあるがまま・・・といえば美しく感じるのが日本人の特性なのかも知れないけれど、悪くいえばただの現状維持、思考停止でもありますな。