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『1Q84』BOOK 3読書中での雑感

昨日、書店で買い求めて8章あたりまで読んでます。

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

今更言うのもなんだけど、エルサレムでの講演内容は『1Q84』を読むにあたってはやっぱり大きな伏線(補助線と言うべきか?)になっていると思います。壁と卵、組織と個人、あくまで個人の立場から組織・システムの持つ暴力性をあばいていく姿勢。ただ、それは過去に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥クロニクル』で試みてきたところであり、この『1Q84』もその延長線上、あるいはバリエーションかな、あの二作は越えられないかな、という印象もあります。
まあ、ぼくなんかが偉そうに言う話ではないし、すでに「思想地図」とか色んなところで言われてきたこととは思うけれど、一個人の立場でシステムに戦いを挑む物語としては『マトリックス』があるし、父親の姿がトラウマになってる状況をどう克服するか、というか誰も彼もアダルトチルドレンな物語といえば『エヴァンゲリオン』だし、特に新鮮味はないかな。アニメ映画では『サマーウォーズ』のように、システムに依存するところは依存して、他者と手を結ぶところは結んで、という形で要領よく行動していくスタンスのほうが現代的ではありますな。
それとは別に感じることといえば・・・
昨年『1Q84』を読み始める前、たしか映画『悲夢』を見た頃から何となく感じていたのだけれど、村上春樹のテイストは、韓国の映画監督キム・ギドクのそれと似通っていると思うことがある。暴力やセックスが重要なモチーフとなっている点もそうだけど、主人公たちの孤独な佇まい、各々の身体感覚を異常なほど信頼しきっているところ、その姿勢が周囲とのギャップを生み出していくところなんかもよく似ている。まあ、そのキャラクター造形には、おそらく作者の人となりというか人生経験で培ってきた身体感覚(キム・ギドクの場合は海兵隊村上春樹はジョギングや水泳などのエクササイズ)が少なからず影響しているに違いない。
確か、あの頃からぼくはウィトゲンシュタインの考え方に興味を覚えていて、キム・ギドクの映画を見たときにも頭の中にはウィトゲンシュタインが引き合いに出す「歯痛」の話を思い浮かべていた。キム・ギドクの映画に出てくる痛みにも、村上春樹の小説に見られる心情吐露にも、非常に「私的言語」チックなところはあるわけで・・・と思っていたら、

読売新聞で『1Q84』をめぐる記者との対談に於いて、後期ヴィトゲンシュタインの「私的言語」概念に影響を受けていたことを明かした。
村上春樹 - Wikipedia

なあんていうネタばらしがしっかりされていたりして、ああそうかと膝を打ったりもした。まあ、私的言語の立場からどこまで世界に戦いを挑むことができるか、という試み自体は面白いけれど、端から見れば「単におまえ周囲が見えてないだけだろ」的に無謀で痛々しいだけの話にもなりかねないわけでなかなか難しい。
さて『1Q84』の3巻では、俗物チックな牛河さんが新たに主人公として加わったけれど、このオッサンがこれから先どう立ち回るかが面白さのポイントかな。最後のほうでは青豆さんや天吾くんと同じくらい青臭いキャラになっているのかも知れないが。