『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説「中論」』

ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』

ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』

龍樹(ナーガールジュナ)については『インド仏教の歴史』(竹村牧男著・講談社学術文庫)を読んだときにも「こりゃあ手強そうだな」という気はしていたんだけれど、こうやって本丸の「中論」を前にすると、やはり一筋縄ではいかんなと思い直してしまう。
とりあえずは「第二章 運動(去ること)の考察」から。有名な「三時門破」の話である。

1 まず<すでに去ったもの>は、去らないし、また<未だ去らないもの>も、去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>を離れた<いま現に去りつつあるもの>も、去らない。

この龍樹の主張に対して、反対者の意見が登場する。

2 去る動きの存するところには<去ること>が有る。そして、去る動きは<いま現に去りつつあるもの>に有って<すでに去ったもの>にも<未だ去らないもの>にもないが故に<いま現に去りつつあるもの>には<去ること>がある。

これに対して、龍樹が反論する。

3 <いま現に去りつつあるもの>に、どうして<去ること>がありえようか。<いま現に去りつつあるもの>に二つの<去ること>は有りえないのに。
4 <いま現に去りつつあるもの>に<去ること>が有ると考える人は、<いま現に去りつつあるもの>は去るが故に、<去ること>なくして、しかも<いま現に去りつつあるもの>があるという誤謬が付随して来る。

上の第4偈は非常にユニークな考え方だ。普通、ぼくたちは「去る」とか「歩く」とか、そういった動作的要素がいっさい付加されない、プレーンな状態の「わたし」という主体を考えるだろう。しかし、龍樹の場合はまったくそうではないのか。つまり、<いま現に去りつつあるもの>から<去る>という動作的要素を差し引いた、プレーンな<もの>(=主体)という考え方は、龍樹には最初から存在しないのだろうか。

22 (ある<もの>が)<去ること>によって<去る主体>と呼ばれるのであるならば、その<去る主体>はその<去ること>を為すことはありえない。何となれば、<去る主体>は<去ること>よりも先に成立しているのではないからである。(行為主体が行為よりも先に成立しているのではないとき)実に何者が何を為すのであろうか。(何者も何も為しえない。)
23 (ある<もの>が)<去ること>によって<去る主体>と呼ばれるのであるならば、その<去る主体>は、その<去ること>と異なった他の<去ること>によって去ることはない。一人の<去る主体>において、二つの<去ること>は成立しえないからである。

うーん・・・ぼくとしては<去る主体>を<去る>と<主体>に分離すれば片が付きそうに思えるんですが、ダメなんですかね。
その疑問については「第九章 先行するものの考察」が答えてくれる。

6 一切の<見るはたらき>等より前に先行して存在する何ものも、存在しない。見る者は<見るはたらき>によって、時を異にし機会に応じて現されるのである。
7 もしも一切の<見るはたらき>等よりも先行して存在するもの(者)が存在しないならば、どうして<見るはたらき>等の一つ一つよりも前に先行して存在するもの(者)が存在しようか。(存在しない。)
8 もしも同じ彼がすなわち見る主体であり、聞く主体であり、感受する主体であるならば、彼は<見るはたらき>などの一つ一つのはたらきよりも前に先行して存在することになる。しかし、これは理に合わない。

ここの第8偈には黒崎の解説がつく。

たとえば、同じ彼がすなわち見る主体であり、聞く主体であるとすれば、彼が目を閉じて鳥の声を聞くとき、彼は聞く主体であると同時に、何も見ない主体であることになる。しかし、これは理に合わない。

さらに。

9 またもしも、見る主体と聞く主体と感受する主体とが、それぞれ互いに異なった別個のもの(者)であるならば、見る主体が存在しているときに、それとは別の別個の聞く主体も存在する、ということになるであろう。そうだとすると、アートマン(主体)は多数ある、ということになってしまうであろう。(しかし、これも理に合わない。)
11 およそ、もしも<見るはたらき><聞くはたらき>など、さらにまた<感受作用>などの属しているそれ(アートマン)が存在しないならば、これら<見るはたらき>などもまた存在しない。
12 およそ<見るはたらき>などより以前にも、同時にも、また以降にも存在していないような、そのようなもの(アートマン)については、「有る」とか「無い」とか言えないのである。

第12偈も黒崎の解説つき。

アートマンの存在・非存在については、無記なのである、語らないのである。アートマンなるものは、ただ言語ゲームの中においてのみ存在するのである。
そもそも、われわれがアートマン(主体)なるものを思い至るのは、「私は」「私を」「私の」「私に」等々といった言葉からである。それらの言葉は、言語ゲームにおいて、文章の一部を構成しながら、完全に有効な働きをしている。そこでわれわれは、それらの言葉から、世界の中に<私>というものがあると思ってしまうのである。
しかし文章というものは、全体として言語ゲームの中で如何に用いられ如何に働いているかによって、その意味が決まるのであって、文章をそれを構成する単語一つ一つに(原子論的に)分解してはならないのである。この反原子論的思想こそ、まさに後期ウィトゲンシュタインのものである。

後期のウィトゲンシュタインといえば、同じく黒崎さん解説の『哲学的探求』を同時並行で読んでいるのでまあ何となく分かりそうな気もする。
たとえば「言葉」に「正しい意味」なるものが付与されているわけでなく、というか「言葉」と「意味」をそうやって一対一対応させる発想がそもそもダメなわけで、つまり「言葉」というものは、人々あるいはシチュエーションによる「使われ方」こそが全てじゃないのかと、まあそんなことをウィトゲンシュタインは言っているわけだ。
それに関連して言うならば、上の「言葉」と「使われ方」の関係性と同じように、「ぼく」という主体も「ぼくによる行為」こそが全てだと言えるに違いない。だから「ぼく」に付随する一切の「行為」を剥ぎ取ったプレーンな「ぼく」という存在を考えることには意味がない。まあ、そんな感じだろうか。現段階においては。