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建仁寺で坐禅(2回目)

先月に引き続き、建仁寺での早朝坐禅(千光会、毎月第二日曜に開催)に行ってきた。
ぼくが坐禅開始の8時ぎりぎりに着いた時には、もう方丈内は参加者で埋まっていたのだが、やはり寒くなってきたせいか11月に比べると参加人数は減っている模様。それはともかく20分×2セットの坐禅スタート。
結跏趺坐という座り方自体は別に苦痛ではないものの、ずっと座り続けていると足が痺れてくる。坐禅の前半が終わって縁側に立ったときはどうも足の動きがぎこちなく感じた。それと左肩がちょっと痛かったかな。まあ、方丈に漂う独特の緊張感に何とか支えられている感じもしないではない。
僧侶がバシッと両肩を打つ警策なのだが、周囲の様子をそれとなく見ていると、どうもこれは「自己申告制」のようだ。眠くなった、姿勢が崩れた、気合いを入れてほしい等々、理由は人それぞれだろうけれど、僧侶が自分の前に歩いて来たときに合掌すると「打って下さい」のジェスチャーになるみたい。そうか、前回「俺は打たれなかったぞー!」なんて喜んでいたのはお目出度い勘違いだったのだね。次の坐禅では思い切って打たれてみようかな。参加者を打つ作法(?)はお寺によってまちまちなんですかね。

「あれでしょ、坐禅といったら居眠りしたら木の棒で叩かれるんでしょ」と思ったあなた。是非とも体験してみてください。曹洞宗では1回の坐禅につき、必ず 1回は叩かれます(帰ってきてwikipediaで初めて知った)。で、ルーキーがいきなり坐禅をやって、あの木の棒(警策)で叩かれないと1時間は坐禅が組めないんです。
無の境地!宿泊坐禅に行ってきた - FREE STYLE / MISHUKU.net

こんなエントリーもありますね・・・。
坐禅の後は読経(般若心経&白隠禅師和讃)とお茶菓子、そして管長猊下の法話。
法話は前回に続いて『無門関』を引用した話だった(黄龍三関)。寝ていても無意識に枕が頭の下になるように、あるいはどこかへ行こうとしたら足が自然とそちらへ向かうように、人が無心の境地になれるシチュエーションはどこにでもあるんだと、まあそんな感じのお話であった。そういえば前回の法話でも「悟りの境地はどこですか」と尋ねられた禅師が杖で足元の地面を叩いて「ここだ」と示す話があったな。禅の考え方ってけっこうポジティブなんだな。
あと、「呼吸することを通して自然と一体になる」という話も出てきたが、これも何となく分かる気がする、っていうかこれって老荘思想にも通じるんじゃないかな。

心をできるかぎり空虚にし、しっかりと静かな気持ちを守っていく。すると、万物は、あまねく生成変化しているが、わたしには、それらが道に復帰するさまが見てとれる。そもそも、万物はさかんに生成の活動をしながら、それぞれその根元に復帰するのだ。
 
虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。万物並び作り、吾れ以て其の復るを観る。夫れ物の芸芸たる、各おの其の根に復帰す。
岩波文庫老子』第16章より

まあ、そんなことをふと考えたりする坐禅体験であった。