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金剛能楽堂で歳末能

以前に同志社大学今出川キャンパス)の周辺を通りかかったとき、この能楽堂があることを知った。能といえば、数年前に読んだ野上彌生子の小説(たしか「秀吉と利休」だったと思う)にそちら方面のことが触れてあったのを覚えていて、あとは家で日曜の朝にBGMとして流しているNHKFMの「能楽鑑賞」であの独特な節回しを印象に残しているくらい。実際の舞台を見に行くのはこれが初めてであり、今回は場違いな好奇心の現れとでも言おうか。
演目は以下のとおり

舞囃子 融 酌之舞(観世流
・能 半蔀(金剛流
・仕舞(観世流
狂言 太刀奪(大蔵流
・仕舞(金剛流
・能 野守(観世流

開演が17時で、終演が21時近く。休憩10分を挟むものの、約4時間の長丁場である。事前に悪い予感はしていたのだが、やはり途中で何度か寝入ってしまった。
まず、セリフが何を言っているのか分からない。まあ、古文の教科書を朗読しているのだと思えば何となくそのようでもあり、セリフの中にところどころ分かりそうな単語が出てくれば「ああそうか」という気にはなるし、もらったパンフレットに記載されている演目の要約を読めばだいたいこういう場面なのかなという察しはつく。
しかし、演者が喋っている脇から不意に「よぉー」とか「ほぉー」というかけ声とともにカンカン、ポコポコと鼓や太鼓が鳴り出すと、その楽器音でセリフがほとんどかき消されてしまう。初心者のぼくはここで早くもガックリと躓きを覚える。舞台の流れがいったん分からなくなると集中力は途端に落ちるわけで、ほどなく睡魔の厄介になってしまうのである。やっぱり能のパンフレットには台本を書いておいてほしいものだ・・・*1と思っていたら、客席の中に毛筆で書かれた自前の台本(正式に何というのか知らない)を用意している人が何人か目に入った。
それから、演者の動き(アクション)が少ない。舞台下手の花道みたいな廊下からすすーっと出てきて、舞台の上では立ったり座ったりするくらいの動作がほとんど。歌舞伎のようにダイナミックな見栄や立ち回りというのはない。強いて言えば最後の演目「野守」の終盤で、鬼神と山伏の対決場面が割と動きのある箇所だったかな。あと、気づいたことといえば、演者の舞台の上を動くときにほとんど上半身の位置を変えずにススーッと滑るように移動しているのが印象的だった。この人たちだったらムーンウォークなんかも簡単にできるんじゃないかな。
あと、これはぼくの知識不足のせいなのだが、どこで舞台の幕切れなのかが良く分からない。ほとんど前触れもなく(演者たちは客席に向かってお辞儀をしたりしない)ササーッと演者たちが舞台から出て行こうとすると「あ、これで終わりなの?」という感じで何となく周囲に合わせて拍手をする(まあ、能が始まった室町時代の頃の人たちは拍手をする習慣なんてなかったかも知れないが)。
今回は、能の演目「半蔀」と「野守」がメインの演目で、その幕間に仕舞や狂言が入っている舞台構成だった。狂言は能の難解さにくらべれば非常に分かりやすくとっつきやすい。セリフが現代の口語に近いこと、演者のアクションがふんだんに盛り込まれていることも大きな要因だろう。今回の「太刀奪」は、主人の歓心を買うために通りすがりの武士から太刀を奪おうとした太郎冠者が、逆に主人から預かった大事な脇差しを取られてしまうという話。後半ではその武士を捕らえて縄をかけようとするところで、太郎冠者がほとんどコントのようなボケを連発して、なかなか面白かった。
まあ、そんなこんななわけで、いろいろと戸惑うことの多い能楽鑑賞であった。しばしば「幽玄」などという形容で語られる能だが、そんなものを感じ取れるのはまだまだ先のこと、やはりぼくのような何も分かっていない者が気軽にひとりで飛び込んでいける世界ではないなと、そういうことが分かっただけでも収穫なのかも知れない。

*1:一番理想的なのは、オペラや京劇のように舞台袖で電光掲示の字幕を流してくれる方式。まあ、通の人からすれば興醒めだろうけれど。