新興宗教カタオモイ教(2)

昨日、鈴木邦男著『愛国者は信用できるか』の読後感をTwitterに投稿している人がいたのだが、それがきっかけで3年前、2006年に書かれた鈴木の文章を探し当てて読んでみた。

僕らが学生のころ、右翼学生の間に、「天皇アナーキズム」「スメラギ・アナーキズム」という言葉が一時、はやりました。今、考えると左翼の影響かもしれません。天皇制の下の階級とか、官僚機構などは一切認めないという思想です。革命前のフランスでは王の下に、僧侶とか貴族とかの階級がピラミッドのように、ガッチリと築かれている。日本はそうであってはならない。日本はピラミッドではなく、むしろ「円」だ。中心に天皇がいる。権力・権威はその中心点(天皇)だけあればいい。あとは自由だ。アナーキーだ。中心点以外のいかなる階層も階級も認めない。そういう威勢のいい理論だった。
 もう一つ、天皇について、ザインとゾルレンという言い方をした。ドイツ語で、ザインとは「存在」「現実」のことで、ゾルレンというのは「当為」「あるべき姿」「理想」「理念」ということだ。
 民族派学生のくせに、こんな難かしいことを言った。つまり、我々が護るのは「ゾルレンとしての天皇」であって、「ザインとしての天皇」ではない。ゾルレンのためならザインなど殺してもいいのだ!と言っていた。
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ザインとゾルレンという言い回し、鈴木の著書で何度か出くわした記憶がある。その言葉の意味するところはあまり分かっていないのだが、人間の形をとって現れた「ザインとしての天皇」を殺してもいい、となると歴代の天皇もその在位中は当然「ザイン」だったわけだし、「ゾルレン」を重視する人にとってはやはり「殺してもいい」対象ということになるのではないか。そんな風に思える。
それならば「ゾルレンとしての天皇」とは何か。究極的には、それは色も形もない、我々人間の目には見えない、まさしく「神」のような存在ということになるのではないか。そんな風に考えると、なんだか右翼学生の天皇論は宗教じみてくるような気がする。
阿満利麿著『親鸞 普遍への道』(ちくま学芸文庫)より引用。

親鸞ののべるところによると、真如(真理の世界)は、色もなく、形もないのものである。それが、なぜ、阿弥陀仏という形をとってあらわれるのか。それは、人間が個別的存在であるからである。人間は、私という我において存在するものである。その個別的存在に語りかけるために、阿弥陀仏という形をとるのである。真如のままでは、人間に手をさしのべることはできない。人間の方も、直接、真如に接し、真如と同一になることはできない。(p.173)

つまり、阿弥陀仏というのは人間が色や形によって認識できる存在としてあらわれた「方便法身」なのである。しかし、ここでそんな話はどうでもいい。ぼくの唱える「新興宗教カタオモイ教」はいずれラディカルな方向に走らなきゃダメだから(笑)方便なんぞというあまっちょろい言葉で満足していてはいけないのである。
かつてぼくにも恋い焦がれる人がいた。その人と「別れて」数年が経つ。おそらくもう逢うことはないだろう。でも、5年先も、10年先も、いやずっとずっと先までも君を思い続けるだろう。では、ぼくが脳裏に浮かべる君の姿とはどういうものか。それはやはり20代前半の初々しい姿に違いない。5年先も、10年先も、やはりその初々しさ、可憐さを保っていることだろう。ぼくの脳内で「再生」される君がぼくと同じように年をとるなんて考えられないわけで、たとえぼくがジジイになっても、君がしわだらけの婆さんになることは絶対にないのだ。
あるいはこんなことも考える。もしかすると、どこかの街角でふと君を見かけるかも知れない。君は、旦那さんといっしょにベビーカーを押して買い物に出かけている姿だったり、水商売の帰りに胡散臭い男と腕を組んで歩いている姿だったりするかも知れない。可能性としてはどちらもありうる。そんなとき、ぼくは何を考えるだろう。まあ、それも人生かとあっさり諦めて、君のことを考えることをやめてしまうのだろうか。いやいや、それは「新興宗教カタオモイ教」の教祖としてあってはならないことだ。やはりここは「これは本当の君じゃない!」と全力で否定してかからなければならないのである。
そう、本当の君とは、ぼくの中だけに存在するのである。年をとってもダメだし、所帯を持ってもケバくなってもダメ。絶対にダメ。ぼくの脳裏にしか存在しない君というのは、いやあ、あの子可愛いなあ、キレイやなあと友達と言い合う対象ですらない。ひたすら美しい敬愛の対象にしかならない。究極的には「色も形もない」存在といえるかも知れない。ぼくは日本国民とか全人類とかそんな大きなターゲットをもった神様なんて要らないのです。ぼくだけを、このぼくだけを愛してくれる小さくて可愛い神様が要ればそれで良いんです。ぼくはそんな君のために今夜も祈りを捧げますよ(だんだん何の話か分からなくなってきた)。