西本願寺&美術館「えき」

昨日のつづきです。

西本願寺

堀川寺之内から市バスで六条まで下って西本願寺へ。

寺院の前に立ってまず目に付くのが風になびく大きな旗の数々だ。
この旗の意味ってなんだろうとウェブ検索をしてみた(下が参照したサイト)。

なるほど、赤字に白の旗は紋旗、五色のストライプは仏旗、とのこと。ふむふむ。お寺といえば、赤字に白で「毘沙門天」「八幡大菩薩」などと染め抜かれた幟を目にすることは多いが、旗を掲げているのは珍しいのでは。いや、浄土真宗系では一般的なのかな。機会があったら調べてみよう。

まず、上がったのが御影堂。縁側に当たる部分がとりあえずデカイ。こういう板敷きのデカイ通路を歩いていると何だか気分がいい。

廊下伝いに北隣の阿弥陀堂へ。堂内では僧侶たちによる読経の最中で厳かな空気が漂っていた。読経の途中で一般客が入ってもOKらしい。なかには堂内でカメラを構えている人もいたが(たしか撮影禁止の掲示はなかったはずだけれど)こういうシチュエーションでの撮影はマナーとしてやっぱり良くないですよね。というわけで中の写真はありません。
読経は事前に申し込みをした信者さんのためのものらしく、堂内の前方に低い木の柵を設けて、向こう側が信者、手前が一般参拝者と、一応の区切りを設けているようだった。読経につづいて僧侶の法話。マイクを手にした僧侶の方には最近娘さんが生まれたらしく、その関連で娘への親心をつづった絵本の内容を紹介していた。生まれたばかりの我が子も、いずれは成長してさまざまな世間の苦労も経験するだろう、やがては結婚や出産を経験し、白髪頭になる頃には自分の我が子を送り出していることだろう・・・といった内容の話。非常に素朴な話だったが、聞いているとなんだかホロッとさせられた。

境内の北側に建てられた札。雨風で文字がかなり色あせて読みにくくなっているが、そこを何とか読んでみると

六条境内?標
本願寺豊臣秀吉より寺領の寄進を受け、天正十九年??一日、京都六条の地に映り?文禄元年その堂宇を完成した。この?標は境内北端を示すものと考えられる。
堀川改修工事にあたり発掘、昭和五十九年七月七日

やっぱり読みにくいわ。それはともかくこの地には本願寺の前に日蓮宗の本圀寺(当時は本國寺)があり、立て札にある天正十九年(1591年)には本願寺造立のため割譲した・・・とウィキペディアの記載にあった。そういえば、先に寄った妙蓮寺の設立にも豊臣秀吉の意図が絡んでいたようだし(秀吉の住んでいた聚楽第を守る位置に建てられたとのこと)、当時は政治家と宗教家が密接につながっていたんだなとあらためて感じさせられる。

美術館「えき」で円空&木喰展

西本願寺から徒歩で京都駅へ。JR伊勢丹にある美術館「えき」で開催中の円空&木喰展を見に行った。ギャラリー内は、鑑賞順路の前半が円空で後半が木喰という配置だった。
円空の木彫り仏像は美術の教科書なんかで何度か見かけた記憶があるものの、こうやって実物を見るのは初めてだ。どの作品を見ても強いオリジナリティーが感じられる。素朴と形容してしまえばそれまでだが、作品の中には木の端くれに目や口を刻んだだけのものもあり、彫られた仏像が何であるかよりも、まず「これが円空なのか!」という印象が先に来てしまうくらいの強烈さを感じる。誰でも作れそうな気もするが、そこにオリジナリティーがなければ質の悪い模倣になってしまうに違いない。

絵はがきより、不動明王と二体の童子。削りだした木がそのまま不動明王の背後の火焔として表現されている。また、館内には2mほどもある大きな不動明王像もあり、これは原色を塗ったらトーテムポールになるんじゃないかと思った。
続いて木喰。なんと62歳になってから仏像を彫り始めたという木喰の作品は、素朴さや独自性という点で円空と通じるものの、作品の風合いは野性的な円空作品に比べて非常に柔和。円空が男性的ならば木喰は女性的に思えた。そのせいか、幼子を抱きかかえた(東洋の聖母子像とでも言うべきか)子安観音像は丸みがあって包容力のある女性らしい雰囲気が伝わってくる。ただ、観音様の顔つきはちょっと老けているので母子というよりも「おばあちゃんと孫」に近い印象もある(笑)。
もっとも、不動明王毘沙門天のように眼をカッと見開いたシャープな形相の像もあるのだが、作品の多くは柔和なテイストだった。ぼくはどちらかというと円空よりも木喰のほうが好きだな。

如意輪観音像。ここまで満面の笑みをたたえた日本の仏像はないんじゃないかな・・・。
展示品の中には、木喰自身を表した像もあった。長いあごひげを伸ばした仙人風の木喰像には、なぜか仏様と同じく光背(後光)が付けられているのが面白い。