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新興宗教カタオモイ教

たしかゴダールの映画『ゴダールの決別』で恋愛感情と宗教心を重ね合わせる試みがあったと覚えている。今にして思い返せば、両者は意外と親しい感情なのかもという気もする。
恋愛感情、その中でも片思いの感情というのはまた格別なもので、たとえこの先ずっと相手にされなくても恋慕の念を抱き続ける一途さがあるとすれば、それはどこか宗教心と相通じるのではないか。そういえば、セルバンテスの『ドン・キホーテ』には「思い姫」という言葉が何度となく出てきて、それが主人公のキャラクターと相まってなんとも間抜けな言葉に思えたのだが、あれだって立派な片思いの感情だし、ずいぶん前にどこかで聞きかじったのだけれど、中世の騎士は自分の想う相手と決して成就されないことを美しいとする気風があったとかなかったとか。
それと関連して三島由紀夫の『奔馬』を思い出したりする。主人公の少年によれば、忠義というものは、天皇陛下に熱い握り飯を差し出すことであり、その握り飯に対して天皇が怒ろうと喜ぼうと、自分の行為は天皇陛下の御心を勝手に忖度した不忠なものになってしまうから、自分は腹を切らなければならないと。忠義のつもりが不忠になってしまう皮肉さはさておき、天皇への想いなど所詮自分から発した一方通行なものにすぎないという自己認識はなかなかのものだし、、そういう感情のことを鈴木邦男は「恋闕(れんけつ)」と解説していたっけ。
まあ、そんなわけで話が逸れたが、宗教心というのも、とりわけ一神教的な宗教心はかなり「片思い度」が高いんじゃないかと思う。自分が将来救済されるかどうかは分からない、分からないというか自分の想いが神様に届いているかどうかも定かではない、そんな状況でもなお信仰の念を持ち続けるのは片思いでなくて何であろう。
誰かに一目惚れして、いつしかはなればなれになって(と自分が思い込んでいるだけ)もう二度と逢うことはないであろう相手を想い、ひとり心を高ぶらせる。二度と会えないからこそ、決して手の届かない相手だからこそ、その思いは崇高なものなんだと思い込んでしまう。それは端から見れば滑稽でしかないけれど、本人は本気だ。そして、その思いを究極まで突き詰めていくと、恋慕する相手そのものというよりむしろ、恋慕の感情こそが重要なものになっていくかも知れない。そうすると相手の顔かたちというのもどうでもよくなり、もはや自分だけの概念・ロゴスとなった「カタオモイ」だけを胸に抱いてこの世を生きていくことになる。それはそれでスゴイ(どんな結論だよ)。