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『風櫃の少年』

ホウ・シャオシェンの1983年制作映画。
澎湖諸島の田舎町・風櫃(フンクイ)から台湾本島の高雄に出てきた少年たちの物語。いや、物語というよりは映像詩と形容したほうがしっくりくるかも知れない。初期作品ながら、ホウ・シャオシェン作品ならではのたおやかなリズム感はすでに確立されている。カメラワークについて詳しいことは分からないが、単なる長回しではなくて、たとえばケンカをしている少年たちを適当な頃合いでカメラのフレームから外したり、アパートのL字型廊下を利用して近景の少年と遠景の少女を同時に映したり、さりげなく凝った趣向も窺える。
バックに流れているヴィヴァルディの『四季』やバッハの『G線上のアリア』は、映像に合っているのかどうか微妙なところだが、見終わってみるとさほどの違和感は残らなかった。そういえば、佐々木昭一郎の映像作品でパッヘルベルの『カノン』が使われているものがあったな。作品内容はとうの昔に忘れてしまったけれど、佐々木の作品も映像詩的な風合いだった。
DVDの特典として収録されている、当時の少年少女たちのインタビュー映像が興味深いものだった。作品完成直後に見たとき、彼らにとってこの映画はいまひとつピンと来るものではなかったという。それから何年も経って大人になってから見返してみると当時は見えてこなかったものがいろいろと感じられたそうだ。
主人公・阿清役のニョウ・チェンツは、ある程度の人生経験を必要とされる作品だと語っているが、確かにそうだろうなと思う。この『風櫃の少年』に限らず、ホウ・シャオシェンの作品は、ティーンエイジャーがのめり込むにはパンチ力がなさすぎる。風景や人物をひたすらのんべんだらりと撮っているだけの退屈な映画にも見える。
ホウ・シャオシェン作品とぼくたちを近づける媒体となるのは、やはり各々の人生経験だろう、それしかない。たとえ失敗ばかりの人生経験しかなくても、劇中の少年少女たちと具体的な共通項がなくても、映画を見ているとどこかでピタッと波長の合う瞬間にめぐり逢えるんじゃないだろうかと思う。いやいや、そういうめぐり逢いがなくても、あのたおやかな時間の流れがなんとも心地よく感じることはできるだろう。ある程度の年齢になれば。
ぼくが初めてホウ・シャオシェンの映画と出会ったのは30歳、大阪で見た『珈琲時光』だった。なんと不思議な印象の映画なんだろうとビックリさせられた。簡単に言葉で置き換えることのできない何かがそこにあった。